371話 既視感
夜空に玉座が見えた……気がする。白み始めた空はベルさまの威厳に添えた後光のようだ。
ベルさまの威圧は僕でも肌がビリビリした。冷たい風に顔を撫でられつつ、太陽にジリジリと焼かれた感じだ。
息苦しさを感じるほどだった。ベルさまに息をするなと言われたら、間違いなく従ってしまう。
潟でさえ既に雲の上で跪いている。多分、条件反射的な行動だ。高位の潟でさえこうなのだから、火精がここにいなくて良かったと心底思う。
「私に……死ね、と……?」
「二度も言う気はない」
いつもよりも低い声だ。
ベルさまの内側から溢れる威厳は分厚い壁のようで、逃げようにも逃げられない。
あり得ない話だけど、ベルさまが敵でなくて良かったと心底思う。理術が効くとか効かないとか、免に判断している余裕はないだろう。
現実的にも、精神的にも。
「雲泥子が、そんなことを言うはずがない。私を守護する雲泥子が……そんなはずは……」
雲泥子が免に加護を与えていたというのも事実だったようだ。
ベルさまの母上を悪く言うつもりはない。でも雲泥子が、どうしてこんな奴に加護を与えたのか理解できない。
免の望むように雲泥子が復活して対面できたとしたら……きっと長時間問い詰めていただろう。
「わ……たしは………自害など、しない」
山をスッポリと包む竜巻に怯んだのか。それともただ現実を受け入れたくないだけか。免の声は途切れ途切れで小さかった。
「まぁ、そうでしょうね。ここまで騒がせておいて自害であっさり解決するわけありません。私としてはもっと屈辱を味わってほしいところですね」
潟が跪いたまま述べた。話すことはできても、立ち上がることは出来ないらしい。それだけベルさまの威力が凄まじいということだ。
潟の額から汗が一筋流れ落ちていった。左手で汗を拭っている。右手には僕が引きちぎった免の右腕を握っていた。
「……私はなんのために……こんな…………理力集めを……」
「何のため? 自分のためだろう? まさか雲泥子のためだ、などと戯れを言うつもりではないだろうな」
ベルさまの即答が免の心にグサグサとダメージを与えていく。
僕も既に似たようなことを言っていた。雲泥子が復活したいと頼んだのか、と。
免が下を向き、顔を両手で覆った。
灰色の帽子が落ちると、髪が真っ白になっていた。
奥都城が不規則に揺れている。免が顔を両手から浮かせると、灰色の瞳が消えていた。
「……沌か」
ベルさまが呟いた。免の仮面が外れて、沌本来の姿を現したらしい。瞳のない目はどこを見ているか分からなくて不気味だ。
「雲泥子が手に入らないなら……こんな世界、無駄です!」
奥都城がぼんやりとした光を溜め始めた。
「原則よ 命じる者は 沌の名……『無理』!」
詠唱が予想外に短かった。
奥都城から熱光が放たれた。四方八方という言葉だけでは足りない。細く枝分かれした光は、地上へ向かって無差別に放たれている。
熱光はすぐに収まったけれど、そこから異変が始まった。
「海が……」
潟が頭を抱えながら呆然としていた。口を薄く開いたままだ。ここから海は見えない。でも感じ取ることは出来る。
海が固まっていた。
青い海も白い波も感じ取れない。凍っているわけでもなく、無機質な固形になってしまったようだ。
沾北海では海豹人が固くなる海から逃げていた。陸に上がった者は、逃げ遅れて固まった仲間を助けようとしていた。
温泉は熱湯の代わりに冷たい水を噴き出していた。氷のような冷たい水が火山に広がり、突然の寒さに貴燈は震えていた。
川は蛇行して勢いを増し、山を突き破った。月代連山へ浸入した川は縦横無尽に暴れまわっている。月代に残った低位精霊は逃げることも出来ず、ただ濡れていて、溺れないよう岩場にしがみついていた。
花茨では水が干上がっていた。急激に水分が奪われて地面にヒビが入っている。移植された芳伯の木が、水を求めて喘いでいる。
今手川、今指川、福増川は逆流どころか、空に向かって水を散布させていた。
そして、華龍河は……燃えていた。
水が火に強いという根本的な理を無視して、火が水を焼いている。
まるで油を撒かれたみたいだ。炎が広がり、岸まで届いている。火は川面を伝って支流に伸びようとしている。
「母上……」
火が広がるのを母上が必死に止めようとしていた。
「ひどい有り様だな」
「流没闘争を思い出します」
ベルさまも潟も眉を寄せていた。
「雲泥子……私の雲泥子……こんな世界が作られなければ、私の元から去ることはなかった……」
沌はまだ諦めていなかった。雲泥子縋るように、ベルさまに向かって手を伸ばした。
「ふむ」
ベルさまは顎に軽く手を当てて少し考える素振りをしている。
脳裏に嫌な光景が浮かんだ。
地獄で見た光景。
迎えるように手を広げる免……改め沌。
そこに歩み寄るベルさま。
そしてボロボロの僕。目の横に指を這わせると爪の間が黒くなった。血が黒く固まっているところまで同じだ。
ベルさまが行くわけない。これだけ相手を全否定しているのだ。沌の元へ行くわけがない。
そう確信しているのに、ベルさまが一歩踏み出しただけで、ドキリとした。
「往生際が悪いぞ、沌。まぁ……だが、ひとつの案を掲示しよう」
ゴォゴォという竜巻の音が耳の近くで鳴っている。でもベルさまの声は遮られることなく、聞こえている。不思議な感覚だ。そんなに大きな声ではないのに、一言一言が全世界に浸透しているようだ。
「濡ヶ沼・沌。精霊界と余……いや、私の愛する者に手を出さないというのであれば、お前と共に行っても良い」
ベルさまが言っていることを理解するのに、時間がかかった。思わずベルさまを二度見してしまった。
僕はさぞ間抜けな顔をしていたに違いない。じっとベルさまを見ても決して目が合わない。ベルさまはこちらを見ようともしなかった。
一方、沌は僕とは対照的だ。救われたと言わんばかりに、感極まった表情を浮かべていた。
「まぁ、私は雲泥子ではないがな」
「あなたが来てくれるなら、なんでもしましょう! いや、何もしない! この世界のもの全てに手出しはしない!」
沌はこれ以上ないくらい目を見開いて、薄ら笑いを浮かべていた。端正な顔のバランスが崩れている。
ベルさまが沌に向かって歩を進めた。一歩一歩とじれったくなるほどゆっくりだ。
信じられない。
悪い夢でも見ているのか?
「ベルさま……?」
聞こえたはずなのにベルさまは振り向くことはなかった。
僕を置いていくのか?
「御上! 戻ってください!」
雲の上から飛び出そうとした。
「ベルさま! 行かないでください!」
潟が止めなければ、ベルさまに手が届いた。
「ベルさま!!!!」
沌がこれ以上ないくらい両腕を広げてベルさまを受け入れる。ベルさまの肩に手を置く動きがとてもゆっくりに見えた。
ベルさまに触るなベルさまに触るなベルさまに触るな!!
指が触れるか触れないかという瞬間、奥都城が崩壊した。
沌が驚いて振り向くのを横目に、ベルさまが宙に手を伸ばした。開いた掌に引き寄せられるように水晶刀が飛んできた。
一拍遅れて沌が再びベルさまと向き合った。ベルさまはその顔に水晶刀を突き立てた。
ベルさまが振り向く。僕と目があった。
「なんちゃって」
ベルさまに水球を投げつけたくなった。
けど……………………そんな勇気はない。




