370話 水理王の警告
ベルさまが鼻で笑った。
聞こえないけど確かに笑っていた。見事なまでの嘲笑だ。背中しか見えないのに、ベルさまの表情まで分かってしまう。
「完全な精霊になりたいとは笑わせる。精霊を喰って半精霊になった者が、今度は精霊と魂繋したいとは……断じて許されることではない」
許さないと言いながら、ベルさまの声に怒りはなかった。
「雫さま。血は止まりました。しかし思ったよりも傷が深く、痕が残るかもしれません。私が塩水でなければ治して差し上げられたかもしれませんが……」
塩水………………そうか。
ずっと不思議に思っていたことがある。
焱さんにも鑫さんにも見えなかった先代さまが、どうして僕にだけ見えたのか。
いや、僕だけではない。ベルさまと話をしたと言っていたから、ベルさまにも見えたはずだ。
そこから考えられるのは、恐らく水精にしか見えていなかったということだ。
そして免も先代さまが見えていた。
先代さまを見たときの顔も、先代さまに吐いた悪態も忌々しそうだった。決して演技や芝居などではなかった。
免の半分が水精だなんて考えもしなかった。
「……半精霊は精霊と魂繋すると精霊になれるそうだが……そのために雲泥子と魂繋したかったのか?」
ベルさまは自分の母親のこととは思えないほど、淡々としていた。
確か、前もそうだった。
雲泥子……雲泥子と自分の母親を呼び捨てていた。もちろん雲泥子という響きから、真名ではないとは思うけど、他人事みたいな言い方だった。
「雲泥子が玄武伯と魂繋していることは知っているだろう」
免の様子は見えない。でも話を聞いていないような気がする。ベルさまに見とれているのが嫌でも分かった。
「人間には離婚、再婚という理があるそうだが、精霊にそのような仕組みはない。完全な精霊になりたいだけなら、別に相手は誰でも良かったのではないか?」
「他の精霊では意味がない!」
ベルさまの言葉が問になると、免はやっとまともな反応を返してきた。声はひっくり返っていて免らしくない。
「私は半精霊を脱したいから精霊と魂繋をしたいのではないのです。雲泥子、あなたと共に同じ時を生きるために精霊になりたいのです」
頭に血がのぼると熱くなるのかと思っていた。実際には違うようだ。怒りのあまり指先から冷えていった。
「雲泥子なら私を理解してくれる」
膝に手をついてゆっくり立ち上がった。潟が肩を貸そうとしてくれたのを遮った。ひとりで立てる。
自分でも驚くほどゆっくりとした動きだった。怒りで四肢が強張っているのかもしれない。瞬きをすると目の横の皮膚が少しひきつった。乾いた血が貼り付いているだろう。
「その姿……その声……その顔……あぁ、本当に雲泥子そのもの。きっとあなたも私のことを理解してくれる。そうでしょう?」
見た目だけ似ていれば良いのか?
それこそベルさまでなくても。
雫さまっ! ……と潟が叫んだ気がする。腕を掴まれた気もする。でもそのときには既に飛び出していた。僕のベルさまに……僕のベルさまをそんな目で見るな!
素手で免を殴った。凍りついた泰山の表面を免が滑っていく。
それを追いかける。免の整った顔が拳の形に歪んだ。悦に入った免の動きが鈍いのか、それとも僕の動きがおかしいのか。
魄中の血が……理力が、煮えたぎっている。
免に馬乗りになって右腕を捻った。脇に足を乗せ軸にする。ギリギリと力を込めて捻りあげた。
免の顔は涼しげなままだった。
まるで痛みを感じないみたいだ。ベルさまの姿に雲泥子を重ねて、それ以外どうでも良いといった感じだ。まさに狂喜。
薄ら笑いを浮かべた免の顔に影が射した。夜の暗さとは違う。巨大な雲に星明かりが遮られたときのようだ。
免が僕に殴られたまま左腕を天に突き出した。パンッという音と共に、熱光が僕のすぐ近くに落ちた。一発だけでなく、次から次へと降ってくる。
避けようとして勢い余ってしまった。捻っていた免の右腕が千切れた。急に軽くなってバランスを崩した。
泰山から空へ無造作に放り出された。足場を確保しようとすると、ベルさまに受け止められた。
「雫」
破れた服のせいで、ベルさまの手が腕に直接触れた。その冷たさで頭にのぼっていた血が一気に引いた。
僕の周りでは無意識に引き付けてしまった理力が淀みを作っていた。
「ベルさま……」
濃い色の瞳と視線がぶつかる。
言いたいことがたくさんあるのに、言葉が出てこない。
「雫。丸腰で相手の懐に突っ込むのはオススメしないな」
思わぬところでベルさまからのお説教を受けた。それを嬉しく思いながら、横目で免が起き上がるのが見えた。反射的に踏み出そうとしたところを再びベルさまに止められる。
免の居城・奥都城が頭上に位置していた。そこから熱光の筋が不規則に放たれていた。
「改めて見ると無駄に巨大ですね」
潟が近づいてきて、皮肉じみた感想を漏らした。
免は右肩を押さえると、左手をヒラッと回転させて、右腕を復活させた。生やしたと言った方がいいかもしれない。僕の手元にも、免の右腕……だったものが残っている。
「雲泥子。私の城でともに暮らしましょう。水の星が嫌なら、精霊界にいても構いません。これからはずっと……」
「断る」
ベルさまは当然の答えを述べた。
免は一瞬、目を大きく開いたあと、すぐに納得したような顔になった。僕と潟にチラッと視線を送って、すぐにベルさまを見た。
「外野がいるから恥ずかしいのですか?照れる必要はありません。私が雲泥子を愛しているのは周知の……」
「断る。雲泥子はお前を愛していない」
ピシッと大きな音が奥都城から落ちてきた。免の心にヒビが入ったみたいな音だった。
「加護を与えていたのは事実らしいが、雲泥子は濡ヶ沼の精霊を喰うことに反対していたそうだな」
ベルさまが免に事実を突きつける。
今まで夢見心地だった免の表情が一気に曇った。
「それにも関わらず、お前は耳を貸さなかった。それで最終的に雲泥子に見棄てられてたのだろう」
それは恐らく免が現実逃避していた部分だ。ひきつった口元を辛うじて持ち上げ、強引に微笑む。
「雲泥子。でもあなたは、また私の前に現れた。私のことが忘れられなかったのでしょう?」
「お前のことなど記憶に留めておきたくない。雲泥子も同じ気持ちだろう」
ベルさまの嫌そうな顔が…………これ以上ないくらい本当に嫌そうだった。
「だが、半精霊ということは半分は精霊だ。そしてその根本は濡ヶ沼の水精。それが分かった以上、余に裁く権利がある」
鳥肌が立った。
ベルさまから理力が放たれた。更に周りに満ちた理力が渦を巻き始めた。僕が先ほど無意識に引き付けてしまったのとは訳が違う。比べ物にならない。
海、川、湖、池……の理力が今か今かと出番を待っている。しかも明らかに水精由来のものだけではない。小さな現象に至るまで、ベルさまの呼び掛けに応じようとしている。
木から蒸散された水分。
土に蓄積されていた水分。
火に沸かされた蒸気。
金属の表面で固まった氷。
世界中のあらゆる場所で、あらゆるものが水理王の指示を待っていた。
「濡ヶ沼の沌。精霊界を騒がせ、混乱に貶めた。被害は甚大。傷ついた精霊やその本体の修復に多くの時と労力を要する。その身を八つ裂きし、世界の理力へ還元することも躊躇わないが……」
巨大な竜巻の中心にでも入ってしまったかのようだ。自分達の乗る雲は巻き込まれていない。間近に聳える泰山でさえ巻き込まれていない……ということは、単純に考えて山ひとつよりも大きい。
この強力な竜巻に出会ったら、例え強化した竜宮でもひとたまりもないだろう。王館に下がらせたのは正解だ。
「望むなら自害の機会を与える」
何より恐ろしいのは、この竜巻が自然の理力を集めたものではないということだ。これはベルさま自身の理力だけで作り出したものだ。
しかも、これはまだほんの警告に過ぎない。




