369話 半精霊の沌
ベルさまが来てくれた。
空気が冷たい。星が見えなくなって、雪でも降ってきそうな空だ。周りにある水の理力がベルさまの登場に歓喜している。世界中の水の理力が、ベルさまの指示を待っている。
風でさえ、遠慮してベルさまを避けている。せいぜい銀髪をわずかに揺らす程度だ。
魂の気流は全てに収まった。精霊の魂は元の場所へ帰っていった。免の収集力より、ベルさまの存在の方が上回った証拠だ。
でも
理王は王館を離れてはいけない。それが理だ。
王館の離れや牢、別の王館などへ行くのとは訳が違う。太子の任務を兼任した故の策とも違う。
技術的に抜け出すことが可能だとしても理は理だ。その理を誤魔化して、王館の外へ出る理由がない。
あるとしたら、僕が不甲斐ないからだ。
ベルさまを支えたいのに僕が足を引っ張ってばかりだ。
「…………水理王……あなたが」
免は呆然と佇んでいるだけで、一言ずつ細切れに言葉を紡いでいた。それ以上、何か行動を起こすでもなく、嫌みを言ってくるでもない。
水晶刀がベルさまの持ち物だと知っていたクセに、ベルさまの顔を知らないとは意外だった。
……僕のベルさまをそんなにじろじろ見るなと言ってやりたい。
「木理王の依頼に基づき、泰山へ通達する。水理王の名において無期限にその口を閉じる。閉山せよ……『深度零』」
ベルさまがそう口にした途端、ヒュッと背筋が凍りそうな冷たさが走り抜けていった。
その冷たさに思わず目を瞑る。目を開いたときには、手をついた泰山の表面が白い霜で覆われていった。
恐ろしい。木精管理の山をあっという間に白く変えてしまった。
「竜宮、大義。王館で待機せよ」
ベルさまは空に佇む竜宮城へ向かって声をかけた。竜宮城はずっと魄失の相手を引き受けてくれた。外に出ていた養父上は無事だろうか。
ベルさまが顔を下げると僕と目があった。
「潟、雫を」
ベルさまは僕から距離を取って、免と対峙した。背中に刺繍された水理王の紋章が銀髪の間から見え隠れしている。
「雫さま。遅くなりました!」
潟まで来た。
水の箱に閉じ込めてきたのに。
「あぁあぁぁあ、お痛わしい。こんなにおやつれになられて……あの野郎、ぶっ……おっと!」
「どうやっ……て」
目眩がひどい。潟に支えられた。足場が悪いせいもあるけど頭がくらくらしてふらついた。頭の奥の方に痛みの名残がある。
可能なら頭の中に手を突っ込んで擦たい。痛みは収まったはずなのに、集中力を欠く違和感が残っている。気が付いたら額に指を食い込ませていた。
見かねた潟が自分の乗る雲へ僕を引き込んだ。乗った雲からはベルさまの理力が感じ取れた。ベルさまが作った雲だ。安定していて、物理的にも心理的にも安心感があった。
「水の箱といえど、御上がその気になればただの箱です。むしろ木製や金属製の箱の方が開けにくいかもしれません」
本人にしか開けられない理術が、意味を為していない。僕に万が一のことがあったときのために、潟を置いてきたのに。
潟まで来てしまったということは……今、水の王館に残っているのは添さんだけだ。
「み、水の王館はどうなってるの!?」
自分から発生した声が頭の中で鳴っていた。グワングワンと僕の頭を揺さぶる。まともに立っていられない。吐きそうだ。
怪我をしているわけでもないのに。
免は何とか脳撃と言っていた。響き的に頭の中をヤられたのか?
「ご安心を。御上が守っていらっしゃいます」
「いや、ベルさま、ここにいるよ」
「大丈夫です」
潟が言い切った。
「それより雫さま、ご自身の治療が先です。涙湧泉の水をお飲みになれますか?」
「今、水の王館に添さん、ひとり?」
「それも大丈夫です。菳を呼んであります。多少の戦力にはなるでしょう。雫さま、それよりも治療を……」
そういえば菳を連れずに王館を離れてしまった。いや……視察ではないから平気か。
消えそうになる集中力を絞り出す。なんとか作り出した水球は泉の水ではなかった。このあたりの水分を集めた水だ。喉を潤すことは出来ても、回復効果は見込めない。
「失礼します」
潟は僕から水球を奪った。そこへサラサラと粉を溶かしていく。
桀さんから貰った万能薬だ。外傷にも効くし、擦り傷から吐き気まで、心の傷を除いたあらゆる不調に効果があり、名前の通り万能な薬だ。
「……水理王……あなたが! あぁあなんてことだ」
潟の掌で薬が溶けていく。それを眺めていると、免の感極まったような声が耳を通り抜けていった。
「雲泥子! ……雲泥子、そこにいたとは……まさかこんな近くに。あぁ、どうして今まで気づかなかったのか」
これまで……こんなに生き生きしている免を見たことがあっただろうか。
「期待に添えなくて申し訳ないが、余は雲泥子ではない。玄武伯と雲泥子の子だ」
ベルさまの背中しか見えない。視界が右から曇っていった。何だと思って目を擦ったら、手の甲にべったりと血が付いていた。
鮮やかな赤だ。怪我をしてから時間が経っていない。いつの間にこんな怪我を……。
「雫さま、擦ってはいけません。額が切れております」
潟が僕の額に薬を塗り込んだ。全く痛くない。本当に傷があるのか疑いたくなる。
「お前は免と名乗っているが、真名は沌。間違いないな?」
免の顔が見えない。
ベルさまの背中から覗こうとしたら、潟に顔を抑えられた。薬を溶かした水球を口に押し込まれた。
水球が壊れ、口の端からかなり溢れていった。潟は看病に向いていない。
「濡ヶ沼に身を投げ、死の瞬間まで沼の精霊と戦い、その身を乗っ取ったそうだな」
「あぁ、あぁ、流石です。よく覚えて……」
ベルさまの知識量には驚くばかりだ。
でも一緒に資料を探しているとき、そんなことは一言も言っていなかった。どうして僕に教えてくれなかったのだろう。
「間違いないなら幸いだ。持出禁止の記録書を兄から送ってもらった甲斐があったというもの。兄は今頃、氷之大陸の理に従い、罰せられているだろう。お前のせいで」
ベルさまの語気が荒かった。
そうか。
兄上に頼んだんだ。恐らくその兄上は澗さんだ。僕が澗さんに頼んでみたらと言った際には、首を縦に振らなかったけど、緊急性と必要性には変えられなかったわけだ。
そして澗さんも厳罰覚悟でベルさまに協力した。澗さんの罰に関しては後味が悪い。全部、免のせいだ。
「あなたの兄……ということは、やはり雲泥子に似ているのでしょうね」
「残念ながら兄たちは全員父似だ」
免はうっとりとした声をまとわりつかせていた。気持ちが悪い。免の声を心地よいと思ってしまったことはあるけど、今は非常に気持ちが悪い。
兄たちは父似、ということはベルさまは母親似。つまりベルさまは雲泥子に似ている。免はベルさまを通して雲泥子を見ているに違いない。
殺してやりたい。
自分でも鼻息が荒くなっているのが分かった。
「元人間の半精霊。人型としての寿命は短く、それを補うため……精霊として生き続けるためには魂を消費するそうだな。違うか?」
足に力が入るようになってきた。潟の支えなしでも立てる気がする。前に出ようとしたらやっぱりひどい目眩に襲われて、潟に止められた。飲み薬の分、効くのに時間がかかる。
「あぁ……今までしてきたことは全て無駄だったのですね。あなたを復活させる必要などない。あなたを迎えれば、私は完全な精霊になれる。そして、永遠にあなたと共にいられるのです」
免の言葉から雲泥子という言葉が消えていた。完全にベルさまをとらえて『あなた』を連呼している。
「雫さま。お静まりください。傷口が開きます」
「うるさい」
怒りで額の傷が開いたらしい。新しい血が流れてきた。構うものか。足さえ動けば……この目眩が収まれば……。




