35話 vs美蛇江
水鏡に映るのは母の河で僕を襲ってきた三人だ。
「母の河を飲むなど恐れ多い。私は母の意思をお伝えするために、その姿を借りて参上したまでのこと」
兄は淼さまにゆっくりゆっくり近づきながら話しかける。淼さまは高いところから、黙って様子を見ている。
「ご覧の通り、我が母は間もなく死に至るでしょう」
兄は淡々と告げた。何の感情もなく……いや、自信が顔に表れている。母上が危篤なのに何故、嬉しそうなのか、理解に苦しむ。
「精霊として魂の死です。よって、その本体の理力を受け継ぎ、私の仲位昇格に充てたいと思っております」
兄が立ち止まった。口元には品のない笑みが浮かんだままだ。水鏡は兄の後に着いてきて、隣で止まっている。その中にはぐったりした母上が映ったままだ。
「母も私にその理力を使われるなら本望と申しておりました」
「母上に何かしたのですか?」
何故かは分からないけれど、兄の言葉が瞬時に嘘だと分かった。僕と目も合わせずにいた兄は、淼さまがいつまでも返答しないので、僕の相手をする気になったようだ。
「私は何もしていないよ。雫」
兄上はそれだけ言うと、顎を上げて僕のことを蔑むような目付きをした。他の兄姉と同じ目だ。
「なるほど……言い分は分かった。華龍はあくまでも自然に失われると言うわけだな? そして、美蛇はその理力を受け継ぐのに相応しいと、そういうことか?」
驚いて淼さまを仰ぎ見た。淼さまは腕組みをしながら玉座に戻っていった。
「はっ、左様でございます」
兄は満面の笑みで玉座の正面に跪いた。淼さまは兄を昇格させるつもりなのだろうか。母の姿を騙り、五人の弟妹を消そうとし、僕の理力を奪おうとしたこの兄を……。
「叔位の身分を偽って謁見に臨んだことは目をつぶろう。謁見の間を荒らしたこともな」
確かに破裂した泡で謁見の間はあちこちボロボロになっていた。
「だが、そなたが仲位に相応しいかどうか、見極めさせてもらおう」
淼さまがそう言い終えるか終えないかの内に、ズシンッと身体が重くなった。立っていられなくて、両膝をついてしまった。腰から下に重りをつけられたような、あるいは、床から何かに引っ張られているような。
両手の指先で床に触れて身体を支えた。重さにやや慣れてきた。大丈夫、動ける。顔をあげると、兄が床に這いつくばっていた。
「どうした? 仲位なら余の理力に耐えられるはずだが?」
「くっ……ぅ、なん」
淼さまが理力を抑えないとこんなにすごいのか。威力に押しつぶされそうだ。
「季位である雫が耐えられるというのに、そなたは動くことすら出来ないようだな」
確かに。僕より兄の方が辛そうだ。
「無様だな」
さっきも聞いた台詞だ。強くて、凛々しくて、優しい兄はどこにいってしまったのだろう。兄姉に蔑まれる僕を、いつも守ってくれたのに。
そこまで考えてふと疑問が生じた。守ってくれたことなんてあったか、と。
先ほど朧気ながら思い出した幼い日のこと。最初は兄姉皆、優しかった。地位の低い僕を蔑むことなく、むしろ可愛がってくれた。それが、いつの間にか冷たくされるようになって、兄は……守ってはくれなかった。いつだって殴り終わった後、蹴りつくされた後、母上が気づいた後、すべて終わった後に現れて守ってあげるねと囁くだけだった。守るフリをしていただけだった。
「く……っそ。『水球乱発』」
兄がこの期に及んで水球をたくさん生み出した。でもおかしい。周りの理力が流れた感じがしない。どんなに簡単な理術でも多少の理力の変化はあるはずだ。そうだとすると、あれは兄の本体、美蛇江の水で出来ている水球だ。
「散れ!」
水球がパッと弾けると、水球ひとつひとつから薄紫色の不定形物体が出てきた。何だろう、これ。ひとつひとつはとても小さいけど、一ヶ所に集まって、大きなひとつの塊になった。僕の寝床くらいあるんじゃないだろうか。
「はっ。いくら水理王と言えど寄生性原虫にかかれば多少は弱体化してしまうでしょうね?」
「……」
兄は這いつくばったままだったけど、口はよく動くらしい。紫色の大きな物体が玉座に向けて飛びかかった。淼さまは動こうとしない。
「淼さま!」
「どうしました、御上。この威圧を解除し、私を仲位にしてくだされば、寄生性原虫は川に戻しま……」
紫の物体は淼さまに辿り着く直前に消えてしまった。僕が見ている前で何の音も立てずに。
「水理王を喰えるわけないだろう」
「くっ……なら」
「!」
兄は僕に水球を投げてきた。顔の前で弾けて、麕臭い。
「はっ。どうです、御上? 雫の命が惜しければ私を昇格させることです!」
僕には見えないけど、さっきの紫の色のぐにゃぐにゃが近くにいるようだ。前髪から滴る雫を手で払った。
「……御上! 雫が脱け殻になっても良いのですか?」
淼さまは黙っているし、兄が床にくっついて言う姿は迫力がない。僕は今何をされたのだろう?
「……おい、なぜ平気なんだ」
「え?」
「もう、そろそろおかしくなっても良いだろう!?」
何を言ってるのだろう、この精霊は。
「無駄だ。雫に寄生性原虫は通用しない」
「! っくそ! そうか、だから前も……」
「余の番か?」
淼さまが玉座に座ったまま指をパチンとならした。次の瞬間、床にいる兄から爆発音が聞こえた。もくもくと靄が立ち込めているから、きっとさっき使っていた破裂する泡だ。
兄はどこにいったのか。靄を眺めていたら、急に身体が軽くなった。淼さまが理力を押さえてくれたようだ。
「さて、観念して裁きを受けるか?」
靄の中でノロノロと動いている影が見えた。
「諦めろ。水理王を欺こうなど身のほどを知れ」
視界が晴れてきた。兄は……いない。と思ったら少し離れた兄姉の元へ向かっていた。ボロボロの服に、剥き出しになった腕、足を引きずりながら進む姿は、かなり怖い。
「寄越せ……」
五人の理力を奪う気だ。五人は気絶していて気づいていない。どうしたら良いのかわからないけど、右足を踏み出していた。
「雫、動くんじゃない」
「でも」
「いずれも罪がある。罪人同士の争いに理王である私が手を出すことは出来ない」
「で……でも」
「いいからあれに任せておきなさい」
あれ?
「『氷柱牢獄』」
兄が氷柱のドームに閉じ込められた。中の様子はよく分からないけど、兄の手が中から氷柱を掴んでいるのが見える。この声は!
「情けないのぅ。たかが叔位ひとりにこんなに手間取るとは」
聞き覚えのある声だ。キョロキョロ見渡しても姿は見えない。
「っくしょう! お前ら、やれ! さっさと華龍を殺せ!」
兄が氷柱牢獄の中から、水鏡に向かって叫んでいる。母に付き添っている三人に向けて言っているみたいだ。
まずい! 母上が危ない!
「『お前ら』とは……此奴らのことかの?」
玉座の正面にある入り口から先生が現れた。右手でひとりの襟首を掴み、左手でもうひとりの喉元を押さえながら引き摺る。あとひとりは足でゴロゴロと転がしている。
「全く……仲位に上がる者のすることではないのぅ。年寄りを大事にせんかい」
すごい。お年寄りとは一体……。先生はポイポイッと軽々二人を投げると、最後のひとりを大きく蹴り飛ばした。弧を描いて兄の氷柱牢獄の上に落ちると、大きな音を立てながら氷柱が粉々になった。
「……ぅうっ」
氷と弟に潰された兄は呻き声をあげ、その間にも先生は少しだけ兄との距離を詰めた。
「観念せよ、美蛇江・渾。そなたの十年以上に及ぶ悪事は全て御上の知るところぞ」




