364話 右脚の俛
水の王館の真上に差し掛かったとき、ベルさまの顔がチラついた。桀さんに伝言を頼んだけど、ベルさまなら僕が王館から離れたことに、すぐ気づくだろう。
今、ベルさまと通信は出来ない。免と戦っていて、何度か呼び掛けようと思ったけど、出来なかった。それに声を聞いたら……顔を見たら離れたくなくなる。
全速力で雲を飛ばして王館から離れた。
水流移動は試したけど出来なかった。竜宮城も雨伯の気配もイメージは出来たのに、水流が発生しただけで移動はすることは出来なかった。まるで何かに塞止されているようだった。
それでも泰山を含めた五山は以前、地図で見たことがある。だから王館からおおよその方向は分かる。小さなズレは時々、隼さんが位置を修正してくれた。
「竜宮まで北西十キロメートル。セキュリティシステム展開中。最大警戒度レベルファイブ」
キロメートルがどの程度の単位なのか分からないけど、近いということだけは分かった。北西の方向に大きな積乱雲がある。竜宮城はあの中だ。
隼さんに言われる前から目視でも確認できていた。そして、その真下に位置しているのは恐らく泰山だろう。頂上は積乱雲によって隠されていて全貌が見えない。
泰山付近でピカッと雷が光った。ゴロゴロという音が後からやってくる。雷伯の理術というよりは雲の中で自然に発生している種のようだ。
巨大な雲を目前に光と音の差がほとんどなくなった。
「隼さん、突っ込むよ!」
掴まってと言おうとして、隼さんに腕がないことを思い出した。飛ばされないように、失礼ながら足で抑えた。足を踏ん張ったまま、意を決して黒い雲の中へ突っ込んだ。
魄に纏わりついて、息が詰まりそうな湿気。
光が届かない暗い雲の中で、目を開けていられないほどの稲妻。
僕と隼さんが乗る雲が散らされてしまいそうな暴風。
竜宮城に歓迎されないのは初めてだ。悲しいというよりも悔しい。試しに雨伯の気配を探してみたけど、嵐の真っ只中にいるこの状況では無駄だった。
「セキュリティシステムの解除を希望しますか?」
「何か言った?」
隼さんが何か言っている。それは分かったけど暴風と稲妻で聞こえない。
「石油が何だって?」
「セキュリティシステムの解除を希望しますか?」
「はい?」
「了。解除コード『ハレルヤ』」
「霽や?」
何を言っているのか、半分以上分からない。聞き直したのに勝手に話が進んでいった。
突然、風が向きを変え、黒い雲が脇へ避けた。おかげで道が出来た。導かれるように雲を進める。けれどすぐに行く手を雷に阻まれた。避けようとすると目の前を稲妻が走る。まともに受けたら黒こげになりそうだ。
「解除コードをどうぞ」
「え?」
「……解除コード『ハレルヤ』」
言えという圧力を足下から感じた。
「は、霽や」
僕の言葉を受けて再び雲が道を作った。ようやく仕組みが分かった。養父上に呼び掛けると、道が開く仕組みらしい。
養父上のことを敬称なしで呼び掛けるのは少し抵抗がある。でも、そういう仕組みなら仕方ない。
雲や雷に進路を塞がれる度、養父上に呼び掛けた。その都度、道が開いて順調に進んでいくことが出来た。
「暫し止まれ、水太子」
もう少しで雨雲から抜けるというところで、邪魔が入った。
稲光に照らされた姿は、雲と同じような色をしていた。聞かなくても免の配下だということが分かった。
「誰だ、邪魔をするな」
「我は免さまの右脚・俛」
いつだったか免が衡山の爆発は左脚にやらせた言っていた。その反対の脚か。
「左脚は一緒じゃないのか?」
ちょっと挑発した感じで言ってみた。
「左脚は衡山の噴火に伴い消失した」
呆気に取られた。自分の魄である配下をよく使い捨てに出来るものだ。
でも考えたら垚さんを倒してきた搀ですら、命令違反だと言って即始末していた。睌のことは褒めていたけど、悲しがったり、悔しがったりする感じではなかった。
「お手合わせ願おう」
何度か免の配下と戦ってきたけど、今までで一番礼儀正しい印象を受けた。
稲妻に照らされた顔には額から鼻にかけて、深い傷があった。意外と免の脚には傷があるらしい。
「手合わせしている暇はない。始末されたくなければそこをどけ」
自分の口からこんな物騒な言葉がスラスラ出る日が来るとは思わなかった。
「我はいずれ免さまのお体へ還る身。死など恐れない」
俛の凛とした言い方に何の迷いもなかった。まるで僕が悪者みたいだ。
「免さまが完全なお姿になる。その時間を稼ぐのが我の役目」
どこから取り出したのか、長い棒状の武器を手に握っていた。足を開いて棒を回転させ、軽く威嚇された。
「完全な姿……?」
今更ながら『免』という名は仮り名だ。だとしたらあの姿でさえも仮の姿だというのか。
「僕たちが戦っていたのは偽物だってことか」
「それは違う。免さまは、御柳木を身代わりに脱出なさったに過ぎない。太子勢の見事な戦いであった。敵ながら天晴れ」
賞賛が心からのものであると分かってしまってむず痒い。免の配下から誉められても嬉しくはない。
俛と話している間に、雨雲の道が塞がりつつあった。時間がない。
霧を晴らす尸解仙を呼び出して、強引に雨雲を飲み込ませるか。それともリヴァイアサンでこじ開けるか。
悩んでいたら新たな詠唱が頭に浮かんだ。試したことはないけど、一か八かだ。
「……義の子よ 誘う者は 雫の名 彼を飲み込みて 通りを開けよ! 『尸解龍仙』!」
義姉上から譲ってもらったナックル。左手に残った方を生け贄にした。
龍の姿をした尸解仙が二体現れた。一体は俛に。一体は暴れまわり、道を開いていく。
「二つの理術を組み合わせ、新たな理術を生み出すとは……見事である」
俛は逃げることもなく、尸解龍仙に飲み込まれた。今の内に開いた雲の間を全速力で抜ける。
「だが……これしきで我は倒れない」
俛が追い掛けてくる。長い棒状の武器を投げつけてきた。振り向きながら、ベルさまから借りた水晶刀で切り捨てた。




