33話 雫と華龍河
「母上……」
声に出しては見たものの、この声はきっと届いていないだろう。
震えが止まらない。足がガクガクして、後ろの壁に寄りかかった。
今、何て言った?
「叔位五名の理力をもって、美蛇江・渾の仲位昇格に充てていただきたく存じます」
母上の後ろにいる五人を見ると目を見開いている。でも拘束されているせいか、声を出したり、暴れたりする様子はない。
目を凝らしてみると水の輪っかのような物で動けないようにされているみたいだ。きっと声も出せないのだろう。
「それで此度の罰に代えようというわけか」
淼さまは特に驚く様子はない。
この兄姉たちは僕のことを蔑んで嫌っている。だけど、母上にとっては自分の子供であることに変わりはない。それなのに美蛇の兄上のために消そうとするなんて信じられない。
母上にそんな残酷な面があったなんて、ちょっとショックだ。
「はい。お許しいただけるならば」
「……ふむ」
僕は淼さまを見上げた。意外なことに淼さまも僕を見ていた。何か言いたそうだ。けど、ここで僕が話しかけるのは厳禁だ。謁見に口を出すことはできない。
「許そう」
「ありがとう存じます」
五人は信じられないという顔をしている。首を振って、母上と同じ碧色の髪がサラサラと揺らす。
当たり前だけど、拒絶している。きっと僕も五人と同じような表情をしていると思う。
「ただしこの場で、そなた自らが手を下すというならば、な」
淼さま!?
淼さまは母上に向かって子供に手を下せと命じたのだ。優しい淼さまがそんなこと言うわけがない。淼さまの真意の分からない。今の言葉で頭がパニックだ。
「かしこまりました」
母上がゆっくりと後ろを振り向く。母上は無表情だった。一瞬、僕の方にも身体が向いたはずだ。でも、僕には目もくれなかった。
「母上」
小さな声で呼び掛けてみる。母上は反応しない。
「御上。この場にて理術を使うことをお許しいただけますか?」
「許す。好きにせよ」
母上は左手を前に出して五人の子供たちに向けている。ぶつぶつと何か言う声が聞こえる。何を言っているかは分からない。けど多分、詠唱だ。
「『氷柱牢獄』」
スガガガッと耳障りな音と振動が伝わってきた。それと同時に五兄弟がドーム型に組まれた氷の中に閉じ込められていた。
捕縛されていて動けないのに、閉じこめる必要はあるのだろうか。
「雫に仕掛けたのはこれでしたね。『氷柱演舞』」
無数の氷柱が五人へ向かう。組まれた氷の隙間を縫って、何本もの氷柱が兄姉に刺さったようだ。
「うぅ」
「……」
「ぐぅっ」
呻き声らしいものは何人か辛うじて聞こえた。抵抗もできないまま氷柱が刺さっている。その姿は見ていて気持ちの良いものではない。
これは……あまりにも残酷だ。
「次は水球を投げつけたのでしたね? 顔は十点でしたか?」
母上の周りには、すでに水球がたくさん浮かんでいる。
「母上!」
気づけば叫んでいた。流石に大きな声だったので聞こえたのだろう。母上はゆっくりと顔を僕に向けた。
「どうしました? 雫」
「あ……あの、お止めください」
母上は口角をうっすらと上げ、美しく微笑んだ。それが逆に恐ろしい。
「雫。謁見に口を挟んではいけませんよ」
淼さまにもそう言われていた。それが理であると何度も言われた。
でも……何だ? 違和感がある。
「余は少し席を外す。戻るまでに終わらせるように」
淼さまが席を立った。今日の淼さまは謁見用の襟が高い服を着ている。喉が少しだけ苦しそうだ。パリッとさせた襟に指を二本入れながら、淼さまは出ていった。
「……母上」
淼さまが中座したので、謁見が止まった。僕と母上が会話しても問題ない。
「雫。御上が戻る前にこれを処理するのです。雫もよく見ておきなさい」
母上は子供に対して、処理という言葉を使った。何故、そこまで残酷になれるのだろう。
「私の可愛い雫をあのような目に遭わせるなど、私の子ではありません」
五兄姉はとても苦しそうだ。息も絶え絶えという言葉がぴったりな程だ。
いくらなんでもこれはやりすぎだ。
「『水球乱発』」
「っ『水壁』!」
とっさに出した水壁で水球を吸収した。王館内に満ちた理力のお陰で、僕でも詠唱を省略できた。
そうは言っても母上の氷柱牢獄の前では僕の水壁など貧弱だ。防げたのが奇跡と言っても良い。
もしかしたら子ども相手に母上が手加減していたのかも知れない。母上の残酷な面を信じられなくて淡い期待を抱いた。
「……雫。何をするのですか?」
母上が僕をジロリと眺めた。顔にはうっすらと微笑みを残したまま、冷たい視線に息が詰まりそうになる。
「母上、お止めください。兄上の理力のことならきっと他にも方法があるはずです」
「御上に許可をいただいたのですよ? それを邪魔するのですか?」
母上が右手の指をパチンと鳴らす。氷柱牢獄はそのままに僕の水壁が消えてしまった。
「ところで雫はいつから理術を使えるようになったのです? 私の記憶では泉が涸れてから使えなくなっていたはずですが」
「今、それは関係ありません。あれを解除してあげてください」
母上が首を傾げたことで髪が床を撫でた。首をそのままに僕に向かって一歩踏み込んできた。
不気味さを覚えて思わず後ずさる。でも、そもそも後ろは壁だった。これ以上は下がれない。
「ははう」
「悪い子ですね。母の質問にも答えず、兄の昇格の邪魔をし、御上のご采配も無視するとは」
母上が一歩、二歩と近づいてくる。豪華な電飾が碧の髪を白く照らしている。
「雫はいつからそんな子になったのですか? あんなに素直で従順でしたのに」
母上の元に理力が集まっているのを感じる。
「『氷柱演舞』」
やられる!
「っ!」
氷柱が僕の服を掠めて、後ろの壁に刺さっていた。幸い体には当たらなかったけど、鍾乳洞の襲撃を思い出した。
恐怖で力が抜ける。へなへなと床に座ってしまった。持っていたバケツがカラカラと音を立てて転がっていった。
「雫はそのまま大人しくしていらっしゃい」
母上は少しだけ近寄ってきて僕を見下ろした。何か言おうとしても、口がカラカラで声が出ない。
天井の電飾が母上の背後に映る。逆光で母上の表情が分からない。
……分からない? いや、分かる。母上は……笑っている。顔は見えないはずなのに笑っているのがはっきり分かる。これには見覚えがある。
いつ? どこで?
顔を上げると母上はもう近くにはいなかった。子供たちにとどめを刺そうとしているのか、理力の集まり方が尋常じゃない。
僕のところからだとよくは見えない。でも五人は抵抗しようとする者、嘆く者、ただ痛みに苦しむ者、バラバラだ。最期のときが迫ってパニックになる者もいる。
僕の最期の時を思い出してしまった。泉が涸れた時だ。あの日……あの日も逆光が眩しかった。それから逆光の中で微かに見えたのは……。
「……あなたは誰?」
疑問が自然に口から出た。母上はピタッと足を止めて、再び僕を振り返った。その動きは少しだけ滑らかさを欠いていた。
「何を言っているのですか、雫?」
「あなたは誰ですか?」
箒を支えにして立ち上がった。震える足を誤魔化して、母上と向かい合う。
「あなたの母ですよ。愛しい雫」
「ちがう」
確信した。
さっきから何度も違和感はあった。でも確信できなくて、今の台詞ではっきり分かった。
「母上は、僕を『雫』とは呼ばない」
僕の中から、ピシリッという氷が割れる音が聞こえた。




