32話 華龍河の登城
「おや、お帰り」
「ただいま戻りました」
しばらくして兄上が帰ったので、僕も淼さまの執務室に戻ってきた。僕の戻る場所が執務室とは……よく考えればおかしい。
「思いの外、早かったね。もう少しゆっくり話してきても良かったのに」
「はい。母に知らせるそうで、兄はあれからすぐに帰りました」
カチャカチャといつもの流れで茶器を取り出す。
「雫のお客を取ってしまったようで悪かったね」
「いえ、とんでもない! 淼さまとお話できて兄も光栄だったと思います」
僕だってそうだ。同じ部屋にいるのは水理王だ。忘れているわけではない。でも時々僕の置かれている立場を確認しないと、身の程を弁えられなくなってしまう。
そう思いながらも淼さまにお茶を差し出す。このお茶汲みでさえ、僕がしていること自体がおかしい。
「あの……淼さま」
「ん?」
淼さまは書類からわざわざ顔をあげてくれた。そのついでのように置いたばかりの茶器に手を伸ばす。
「もし……もし、兄が昇格して、側近として王館に上がったら」
「うん」
書類を片手に持ったまま、淼さまが茶器に口をつけた。熱くはないと思う。八分の熱さまで冷ましてある。
「僕は出ていった方がいいでしょうか?」
「!?」
淼さまの服と書類がうっすら染まっている。どうやらお茶を吹き出したらしい。淼さまのこんな姿は初めて見た。……いや、見てしまった。
「……何だって?」
淼さまは手をヒラヒラさせて服と紙を乾かしている。書類はクタッとしてしまっている。
聞き返されたということは、聞き取れなかったのか、それとも僕の言い方が悪くて伝わらなかったのかもしれない。
「もし兄上が」
「いや、待て」
淼さまは僕を手招きした。萎れた書類はすでにパリッと乾いていた。
「どうしてそういう考えになるのかな?」
「だって……」
最初は兄上が王館に上がったら、相談に乗ってもらえると思っていた。でも、兄上と二人で話をしている内に、そうではないような気がしてきた。
兄上がいれば僕は必要ない。兄上はあらゆる面において僕よりもずっと優れている。何でも出来るし、何でも出来るし知っている。僕よりも、きっと淼さまの役に立つはずだ。
「雫。待ちなさい。美蛇は昇格したら側近にしようとは思っているが、雫は側近じゃないんだから関係ないだろう」
「兄上の方がお役に立てるかと思って……」
淼さまは額に手を当ててしまった。うーんという微かな声が聞こえる。
「雫。何度も言うようだけど、雫には感謝してる。それに身の回りの世話をしてもらうのに、階級とか地位とか、そういうものは必要ない」
淼さまの目を見つめる。いつもの濃く光る色をしていた。そこに偽りがないことを感じる。
「兄と比べる必要はない。だからそんなこと考えるんじゃない。追い出したりしないよ」
淼さまの言葉に偽りがなくても不安だ。
「でも」
「雫、これ以上言うと怒るよ。前にも言ったけど、もう少し私を信用してほしい」
淼さまが眉間にシワを寄せている。僕と話していてこういう表情は珍しい。僕が悪いことをしているようだ。
「申し訳ありません。少し不安になって」
「まぁ、気持ちは分からないでもないけど」
淼さまが持ったままの書類を机に落とした。パラッと音がする。
「それから、雫はまだ理術を学び終えていない。勉強には終わりがないというが、せめて師匠にお墨付きを貰うまでは続けなさい」
また諭されてしまった。そう言われては途中で投げ出すわけにはいかない。
そういえば指南書が、あとどれくらいあるのかも知らない。先生が戻ったら聞いてみよう。
「ああ。それから華龍どののことだけど、恐らく彼女は、体調が悪くても登城するだろう」
淼さまは持っていたままの茶器をそっと置いた。カチャと言う音が控えめに聞こえた。
「僕もそう思います」
「やはりね。華龍どのには数回会っているが、そういう方だったと記憶している」
体調が良ければという条件付きの命令だ。けど、母は自分の都合で動くようなことはしないはずだ。淼さまの意思で呼ばれていると知れば、這ってでも来るだろう。
「明日か明後日には来ることを想定して、謁見には雫も立ち会うと良い」
「え?」
謁見って僕が立ち会っても大丈夫なの?
僕がそう尋ねる前に、淼さまは片手を上げて僕の発言を制した。
「まぁ、ほんとは駄目だけどね。当事者以外は発言も出来ない」
「ですよね」
昇格間近の兄上でさえ、謁見は出来ない。そういう理だ。その下の季位なら尚更だろう。
「なので、雫にはタイミング良く、謁見の間の掃除をしていてもらおうか」
ん?
淼さまが悪戯っぽい笑みを見せた。
◇◆◇◆
ーー翌々日。
頭に手拭い。右手に箒。左手にバケツと雑巾。完璧な掃除の装いで、謁見の間に来ていた。
僕は謁見中に邪魔にならないよう壁にくっついている。でもあくまでも掃除に来ているので、汚れのない壁を無意味に磨いている。
誰が何と言おうと掃除だ。
掃除に来ているのだと言い張らなくてはならない。……一体誰に言い張るのかは不明だ。
僕の右側には少し高い位置の玉座がある。そには当然ながら水理王・淼さまが座っている。そして、左側には……。
「仲位・華龍河が清。参上いたしました」
母上が跪いている。深い碧色の髪を床まで垂らし、青白い顔を伏せていた。更に母上の後ろには五人の精霊が固まっている。
「大義である。後ろの五名は何だ」
「恐れながら、この度、鍾乳洞にて襲撃事件を起こしました我が子らでございます」
僕の兄姉か。母上に連れて来られたのだろう。捕縛されて口も何かで塞がれている。
「連行の命は出していないが?」
「はい。この者たちは本来ならば私めが処分するべき者ではございます。しかし、母として判断が鈍ることもございます。それ故、御上のご判断を仰ぎたく、誠に勝手ながら連行いたしました」
母上は結構厳しいらしい。僕には優しい記憶しかない。けど、もしかしたら覚えていないだけで実は厳しかったのかもしれない。
「さようか。その件は後にする。まずは楽にされよ。身体の調子はいかがか?」
「ありがとうございます。本日は体調も良く問題ございません。お気づかい感謝致します」
母上の顔色は良くない。決して万全ではないはずだ。けどそれを表に出さないように努めている。
母上は頭を上げながら、ちらっと僕に目を向けた。右耳の上に軽く手を添えている。
あ、僕があげた櫛、付けてくれてる!
母の右耳の上には竹で作られた櫛が控えめに乗っていた。ちょっと嬉しい。
「さて」
淼さまの声が響いて現実に帰った。淼さまの声はいつもよりちょっとだけ低くて、緊張感がある。僕は壁を磨きすぎて、もうすることがない。とりあえず豪華な装飾の天井を眺めていた。
「叔位・美蛇江の昇格については聞いているな? 率直に聞くが、そなたはどう思う?」
いきなり本題だ。母上の承諾がなければ、淼さまは兄上を昇格させないだろう。
「我が子、美蛇の昇格については私が反対することは何もございません。御上のご意思となれば尚のこと。また王館に迎えてくださるとのお言葉も頂きましたそうで、母として嬉しく思っております」
母上も賛成しているらしい。
兄上の問題はこれでひとつ解決だ。
「ふむ。そうか」
淼さまを見ても表情は全く変わらない。二日前、兄上と三人で話したときもそうだったけど、普段の淼さまとは全く違う印象だ。これが本来の姿なのだろう。
「華龍どのの意思は分かった。だがもうひとつ問題がある」
「承知しております」
兄上の持つ理力が少し足りない件だ。僕が聞いていても、どうしようもない話だ。
兄上の理力のことより、天井に付いている豪華な電飾が気になっている。キラキラと輝く電飾が氷で出来ているような気がする。溶けないのか気になって仕方がない。
「美蛇の理力は仲位には足りておりません」
母上の髪が床を撫でた音がした。その音に視線を天井から下ろす。
「良く分かっておられる」
「御上。美蛇は今後、御上の役に立つでしょう。私めの川に留めておくには惜しい存在です」
淼さまは黙って聞いている。母上の次の言葉を待っているようだ。
「ですので、どうか足りない分を補填させていただけないでしょうか?」
補填?
母上はまっすぐ玉座を見上げている。
「というと?」
「恐れながら」
母上が少し脇にずれた。片手を上げて後ろの五人を指し示す。
「この五名の魂魄を使っていただけないでしょうか?」




