30話 来訪
急いで食事の片づけをして自室に戻り、忘れない内に前掛を外した。
僕にお客なんて今まで一度もなかったから、何をどうしたらいいか分からない。
手早く服を着替えて自室を出た。向かうのは離れの座敷だ。離れは淼さまが非公式に招いた場合に使われるらしい。ただ、僕が王館に来てからは使ったことはないと思う。
扉の前でいったん立ち止まった。見慣れていない扉は少し緊張する。息を吸ってノックをした。
「雫です。参りました」
淼さまの声ですぐに返事があった。声が異様に遠い。
この部屋は執務室と造りが異なる。入ってすぐに履き物を脱がなければならない。
それから一段上って、藺草の絨毯を歩く。一足進む度に青い香りが広がった。
すぐ近くの横開きの扉は開け放されており、敷居を跨ぐ前に膝をついて礼をした。顔を上げると淼さまはとても遠くに座っていた。
壁を背中にしており、ここから三、四十歩は離れているかもしれない。離れ過ぎて会話がし辛い。
けどよく考えれば、これが理王と低位精霊の正しい距離なのかもしれない。今まで僕が淼さまに近すぎただけだ。
視線を移すと、向かい合う下座には碧の後頭部が見えた。
「雫!」
「あ、兄上!?」
振り向いたのはひと月前に再会した兄だ上った。横開きの扉をそっと閉め、兄上に近づく。
淼さまを見ると、黙って軽く頷いてくれた。きっと好きに話して良いということだろう。
兄上の隣に座って目線を合わせる。
「雫。元気そうで何よりだ」
僕は母上のところで他の兄姉たちを傷つけてしまった。兄上を見た瞬間、その時のことが鮮明に蘇ってきた。
「兄上。何故こちらに?」
その件で怒られるかもしれない。けど、美蛇の兄上は怒る様子もなく、変わらず僕に接してくれた。
「御上と雫へ謝罪に来たんだ」
「謝罪ですか?」
兄上はそう言うと正座をしたまま、体をぐるりと動かした。僕から淼さまに向き直って、藺草に両手を着いている。
「雫も参りましたので、改めてご挨拶と謝罪をさせていただきたく存じます」
兄上が畏まった声に変わった。
「許す。好きにせよ。雫もいいね」
「はい」
兄上はさらに頭を低くした。叔位の兄上は謁見では理王に会えない。謁見という形ではなく、僕のお客ということで通されている。淼さまは、あくまでもそこに同席しているだけ。
淼さまはそういう体を崩さない。
「ひと月前、雫を襲撃した弟三名、並びに鍾乳洞内にて襲撃した弟妹五名。回復しましたので尋問いたしました」
やっぱりあの件だった。
尋問と言っても、兄姉たちはきっと全部僕のせいだと言うのだろう。
「弟たちは雫を非難する言葉を述べておりましたが、悪質極まりないため、母の名の下に、全員謹慎処分としました。叔位・美蛇江が渾、名代として謝罪に訪れた次第でございます」
淼さまは膝に手を乗せたまま動かない。
今お召しの黒い服は普段来ている服とはちょっと違う。襟元が開いていて楽そうだ。黒い服に銀髪がゆったりと流れてとても美しい。夜の海に冷たい月の光が落ちているみたいだ。
「謝罪は雫にするように。余は被害を受けていない」
でも喋り方は窮屈そうだ。淼さまの表情は変わらない。けど、何となくご機嫌が悪い。僕のお客につき合わされて、お仕事が進まないからだろうか。
「雫」
兄上が再び僕に向き直った。僕に頭を下げる兄上に反応できなかった。気づけば目と首だけで兄の動きを追っていた。
「ごめんな。また守ってやれなかった。あんなことがあったから、家を出た方が雫は安全だと思ったんだ」
声がくぐもっている。兄上が下を向いているせいで、藺草に音を吸収されているようだ。
「まさか、五人も襲いに行くとは思ってなくて。本当に申し訳ない。長兄である私の注意不足だ。怪我もしたと聞くが、もう怪我はいいのか?」
兄上が頭を上げて僕を見た。心配そうな目をしている。安心させてあげないと。
「もう大丈夫です、兄上。だから」
「良かった。……いや、良くない。大事には至らなかったとはいえ、犯した罪は変わらない。謝って許されることではないが、どうか謝罪を受け入れてほしい」
頭を上げてくださいと言おうとしたのに、兄上はさらに頭を低くしてしまった。どうしていいか分からない。
縋るように淼さまを見る。バチッと目が合った。深く頷いてくれたので許してやれということだろう。
「兄上。頭を上げてください」
「雫が許してくれるまで上げるつもりはない」
兄上は意外と強情だ。昔からしっかり者で優しい印象だった。こんなに自分の意思を曲げないのは初めてかもしれない。
「初めから兄上のせいだなんて思っていません」
元々、兄上からは何もされていない。代わりに謝ると言われてもちょっと困る。
「許されるまで頭を上げないと言う主張はいささか卑怯だ。雫もそう言っていることだ。面を上げよ」
「…………はっ」
淼さまが一言添えてくれたお陰で、兄上がやっと頭を上げてくれた。
「雫、ありがとう。私はもっと罵詈雑言を浴びせられるかと思っていた」
それは僕の方だ。兄や姉を傷つけてしまったことで、てっきり怒られるかと思っていた。
「兄上を罵るようなことなんて言いません」
「そうか? 雫は優しいな」
優しいのは兄上の方だ。今回だってわざわざ僕に謝りに来てくれたんだから。
「あいつらにも聞かせてやりたい。雫を襲った弟たちは、私の言うことをちっとも聞かないんだ」
そうなんだ。兄上は叔位の中ではかなり強いと聞いたことがある。けど、それでもやっぱりダメなんだ。
「母上の言うことなら多少は聞くけど、母上はあまり強く言う方ではないから」
「そういえば、母上はお変わりありませんか? 先月、お身体が思わしくないとおっしゃっていましたが」
櫛を髪に刺した姿を思い出す。すぐに部屋に下がってしまって、あまりお話ができなかった。
僕がそう尋ねると、兄上の眉間にシワが寄った。
「あまり良くはないな。お休みになることが増えてきた」
「そう、ですか」
心配だ。会ったばかりだけど、顔を見に行きたい。
「寝たきりとまではいかないが、目が行き届かないことも増えてきたな」
兄上が溜め息を吐いた。急に疲れてしまったみたいだ。
「私が長兄として代わりに弟妹たちを戒めてはいるが、所詮同じ位だからな。なかなか素直に言うことを聞かないんだ」
兄上は膝の上で手を握りしめた。きっと悔しいのだろう。
「その方、美蛇と申したな?」
淼さまが突然兄上に話を振った。兄上はまた手を前について頭を低くした。
「はっ、左様でございます。本体は華龍河の支流である美蛇江にございます」
「華龍どのは病なのか?」
淼さまが母上のことを気にかけてくれている。ありがたい気持ちと同時に、申し訳ない気持ちになってくる。
「いえ、病ではないようですが……。申し訳ありません。本来ならば、仲位である母が手続きを踏み、御上に謁見を求めた上で、雫に謝罪に参るところではございます。しかし……」
「それは構わない」
淼さまが兄上の言葉を遮った。それだけで兄上は肩をビクッと震わせる。
兄上は恐る恐る淼さまの顔を見上げた。けど慌てたように、すぐまた頭を低くしてしまう。
「数ヶ月前、母が御上に救済を求めたことがございました。子である支流に侵略されかかり……あの時にはすでに体調が崩していたようで、御上の手を煩わせてしまいました」
そんなことがあったのか。僕は知らなかった。
「済んだことだ。そして何より水精の安定も私の仕事のひとつである。気にする必要はない」
淼さまは相変わらずちょっとだけ機嫌が悪い。どこがどうというわけではないけど、なんとなく機嫌が悪いのが感じ取れた。
「それはそうと……見たところ、そなたは叔位とは思えぬ理力を有しているな?」
話題が変わった。母上の話は終わってしまったのだろうか。もう少し様子を聞きたかった。
「恐れながら、私の川は年々長くなり、所有する理力も比例して多くなっております。そのため、叔位として不相応な理力を所有しております。お許しくださいませ」
「ふむ」
淼さまが少し考える様子を見せた。特に怒っている様子はないけど。けど、イライラが伝わってくる。兄上は淼さまのイライラに気づいていないみたいだ。
「叔位とは季位を守る者。私はこの力を妹弟の中で唯一、季位である雫を守るために使おうと……そのために力を得たのだとそう理解しておりました」
兄上が息継ぎもしないで喋っている。淼さまは身動きひとつしない。
「しかし、雫を守ることに失敗を重ね、その身を危険にさらしました。もし、お咎めがあるならば、いかようにも受ける所存でございます」
また僕のせいで誰かが罰を受けるの?
そんな……そんな。




