29話 反省と知らせ
王館に戻ってきて、まもなく一ヶ月が経とうとしていた。
赤い短髪の精霊には、あれから一度も会えていない。まだ淼さまのお許しがないみたいだ。
どうしても彼の名前が思い出せなかった。キリッとした顔もハッキリした声もちゃんと思い出せる。でも名前を呟こうとしても、それが分からない。
それを寂しいと思う。名前を呼べる誰かがいるというのは、案外大切なことなのだと知った。
赤い精霊だけでなく、僕も少し反省するように淼さまから言われた。
僕は出立前に火精のことで注意を受けていた。だからもっと周囲を警戒する必要があったのに、理術が使えるようになったから、少し油断していたのかもしれない。振り返ってみると、火精に襲われているときも、口さえ動かせれば理術で対抗できると考えていた。
抵抗できたとしても自分の本体が危険なことに変わりはない。そのことを第一に考えるべきだったのだ。
そもそも市のような混雑しているところは避けるのが得策だった。今ならそう思う。
今回のことは僕の驕りが招いた結果だ。まだまだ理術は勉強中だし、僕の本体だって少なくて火に弱いままだ。
淼さまからお叱りではなく諭すように言われたことが余計に辛かった。これからは謹んで行動しようと心に誓った。
僕は『ただ一滴の雫』。
理術がちょっとばかり使えるようになったからと調子に乗ってはいけない。
また僕のせいで一緒にいる誰かが罰を受けるかもしれない。僕のせいで誰かがとばっちりを受けるのはもう嫌だ。
決意も新たに僕は廊下に向かって叫んだ。
「『水拭清掃』!」
一瞬波が現れ、床を撫でて消えた。床がピカピカになった。先生が最初に見せてくれた理術だを、僕もうまく使いこなせるようになった。
先生はまだ帰ってこない。長くて二ヶ月と言ってたから、もうじき帰ってくるとは思うけど、先生が帰ってこないと、この先の勉強が進まない。
もちろん今までの理術の練習をすればいい。だけど、それよりもせっかく学んだ理術を活かしてみたい。
そういうわけで淼さまの許可をもらって、家事をしている。数ヵ月前の生活に戻ったみたいだ。
違うのは、掃除にも洗濯にも料理にも理術を使えるようになったことだ。
おかけで時間が半分くらいに短縮できた。余った時間で凝ったデザートまで作れるようになってしまった。
作り終えた夕食を持って、執務室の扉を叩く。
「淼さま。失礼します」
何だか懐かしい。十年間、毎日こうしていたのに、たった数ヶ月違う生活をしていただけで懐かしくなるものだろうか。
入室の許可をもらって扉を開けると、淼さまは予想通り執務席にかけていた。
机の様子が数ヶ月前と違うのは、格段に書類の山が低いことだ。淼さまの顔がしっかり見えた。
「あぁ、ありがとう」
淼さまはすぐに席を立って移動してきた。料理を並べるのが間に合わなくて、ちょっと慌てる。
「雫。いい知らせがあるよ」
「何でしょう」
聞き返したけど、すぐには返事がなかった。淼さまは僕が支度を終えるのを待ってくれている。
大方を並べ終えて、匙を淼さまの前に置くと、やっと淼さまは再び口を開いた。
「師匠が帰ってくるよ」
「本当ですか!」
自分の匙を落としそうになった。嬉しくて少しだけ動揺している。
「あぁ。昨夜連絡があった。時間がかかったけど、二ヶ月なら許容範囲だ。これ以上遅いとサボ……いや、何かあったのかと」
淼さまが不思議な笑みを浮かべている。どういう感情なのかちょっと読み取れない。席に座るよう促されて真向かいに着いた。
「まぁ、一両日以内には帰ってくるよ。そうすれば、また理術の勉強を再開できるね」
「はい、頑張ります! あっ」
汁物の椀に袖を引っ掻けた。椀が傾き、中身が溢れかかっている。
「……『氷結』!」
「お見事。それから?」
転がった椀を元へ戻すと、中には傾いたまま凍った汁物が張り付いている。カチカチだ。
「えと『液化』?」
汁物が液状に戻った……けど。
「冷たい」
「だろうね。液化は名前の通り液状にするだけだから、温度は上がらない」
「じゃあ、えーっと」
沸騰は違う。そんなことをしたら熱すぎて飲めなくなってしまう。
「正しくは……いや、止めよう。これ以上は教えられない。理違反になる」
淼さまは、切り分けていた魚の身を一口含み、ふと扉に目を向けた。冷たい椀を持ったまま、僕もつられて見てしまう。
誰かいるの?
「入れ」
淼さまが短く告げる。でも扉が開く様子はない。不思議に思っていると、手の中の椀が震えだした。
「え、ななな」
椀に両手を添えて震えを止めようとした。しかし震えが止まる様子はなく、ガタガタと震えて置くことすら出来ない。中身が溢れないようにするだけで精一杯だ。
「漕。そこは止めてお……」
漕さん?
椀の中から魚が飛び出してきた。
「あぁ。間に合わなかった」
前に漕さんに会ったときと少し違う。今日は透明な体ではない。薄く茶色に染まり、所々に溶いた卵が見えていた。
「漕には何度か会ってるね?」
「は、はい」
漕さんが椀を持つ僕の手に軽く触れた。その後、宙を泳いで顔にすり寄ってくる。ふわっと昆布出汁の匂いがした。
「水理王の水先人だ。まぁ、私にとっては……使い走りだけどね」
何の用かと淼さまは漕さんに尋ねると、漕さんは僕の顔から離れて、淼さまの元へ泳いでいった。
漕さんは淼さまの右耳に囁くように泳ぎ、首の後ろを回って左耳へ移動した。その姿をぼーっと眺める。
僕の汁物は漕さんの体を構成するのに使われたらしい。椀はすっかり空になってしまった。
「そうか。思ったより早いな」
淼さまは漕さんと話し込んでいる。僕が首を突っ込んでいい話ではないだろう。黙っているのが得策だ。
「雫。お客だよ」
椀を置こうとすると、また淼さまから声をかけられた。
「はい、かしこまりました。では」
「いや、まだいい」
席を立とうとして半分腰を浮かせた。けれど、予想外の答えが返ってきたので変な体勢で止まってしまった。
「漕。ご苦労だった。戻っていい。引き続き廻れ」
浮かせた腰を元へ戻すと、漕さんが再び僕の近くへ寄ってきた。僕には触れず、空の椀へ入ると、魚の姿をとどめずに元の液体に戻ってしまった。
「漕さん?」
「もうそこにはいないよ。次の仕事に行かせたからね」
この汁物、飲めるのだろうか。椀をじっと見ていると、淼さまがそれに気づいた。
「飲んでも平気だけど温めてからの方がいいかもね」
淼さまがそう言いながら僕の椀を見つめてた。淼さまが瞬きをひとつすると、それだけで椀から湯気が出てきた。流石だ。
「もう少し楽しみたかったけど、早く食べてしまおう」
「分かりました。終わったら謁見用のお着替えをお持ちしますね」
温かくなった汁物に匙を入れようか、まだ悩んでいた。漕さんを食べるみたいで抵抗がある。
漕さんが汁物にはいないという淼さまの言葉を信じ、思いきって汁物を掬った。
普通の汁物だ。良くも悪くも僕の味付けだ。
「いや、謁見じゃないよ。必要ない」
先程、お客が来たと言っていた。
淼さまはいつも、謁見を求めに来る精霊たちを『鬱陶しい客』と呼んでいる。てっきり今回もそうだと思った。
「私ではなく、雫へのお客だよ」
「僕? ですか?」
淼さまは口元を布で拭って、茶器に手を伸ばした。早くも食事を終えたらしい。
「あぁ。仮に私に会うとしても謁見は出来ないよ。高位精霊じゃないからね」
そこまで言うと、今度は僕が作ったスフレを楽しんでいる。余った時間で作ったものだ。淼さまが喜んでくれているようで何よりだ。
「今回は雫の面会に同席という形で会わせてもらう。それなら可能だから。応接間……ではダメだな。離れの座敷に通そう。片付けを終えたら、着替えておいで」
「分かりました」
返事をしてから、食事を詰め込む。
「前掛け取るのを忘れないように」
僕ならちょっとやりそうだ。恥ずかしさを隠せない。
口いっぱいに食べ物が入っているので、返事が出来ない。その代わりに何度も頷いた。
「…………考えたな」
淼さまの呟きがはっきり聞こえた。しっかり飲み込んだあとも、僕は恥ずかしさで返事をすることが出来なかった。




