302話 師の死
「潟、急げ!」
ひと足先に竜宮城の庭へ足を踏み入れる。勢いよく止まったせいで、庭の芝生が抉れてしまった。
『暫定当主代理、霤の存在を確認。目的地をどうぞ』
エムシリさんの居場所を潟に聞こうと思っていたら、案外すぐに見つかった。エムシリさんは手頃な岩に立て掛けられていた。
片手に菳を抱えているので、やや乱暴にエムシリさんを拾い上げた。
「王館だ! 水の王館に戻る!」
ちょっと強い言い方だったけど、気を使っている余裕がない。早く先生の治療をしないと。
『了。水の王館への移動を開始します』
「あ、いや、待って! 潟と先生が」
肝心の先生がまだ来ていない。潟は先生を抱えて走っている。あまり振動を与えないように、慎重さが勝って速度が鈍い。
しかも……再び辺りに霧が発生し始めている。そうなると厄介だ。このボロボロの竜宮城で無事に通過できるかどうか。
『尚、移動による竜宮城への損傷は……』
「潟! 早くしろ!」
潟は先生を一旦下ろして背負った。軽く地面をひと蹴りして、波乗板を構成する。うっすらと漂う霧を波代わりにして、一気に竜宮城へ滑り込んできた。
『離陸します』
エムシリさんがそう言うと、竜宮城が動き始めた。ゆっくりと浮上し、恒山から離れていく。
先生の手当てをするため、菳を下ろしたときだった。
ドンッという爆発音がビリビリと響いた。
揺れが強くて、踏ん張っていないとまっすぐ立っていられない。下ろしたばかりの菳がゴロゴロ転がっているので、再び拾い上げる。壊れかけだった屋根が崩れて、恒山へ落ちていった。
「雫さま、魄失が……」
潟が先生を背負ったまま、庭の縁から恒山を見下ろしている。僕も菳とエムシリさんを抱えたまま、潟の隣に並んで恒山を見下ろした。
「な、んだ……コレ」
恒山が見えない。
魄失……多分、魄失で埋め尽くされている。こんなに大量の魄失を一度に見るのは初めてだ。
海豹人で真っ黒になった砂浜をみたことがあるけど、その比ではない。
「追ってきます!」
魄失の群れは恒山を埋め尽くしたあと、更に膨らんでいる。見方によっては僕たちを追ってきているようだけど、ただ広がっているだけにも見える。
「潟、落ち着いて。追ってきてはいないよ」
「しかし……」
潟は落ち着かない。不安というよりも戦闘の意識が高い。
戦いが続いていたから気持ちが高ぶっているのかもしれない。
「蓋が……ゲホッ、ゲッ……開いたか。众人が解放……ゴホッ、カッ……ハッ」
潟の背中で先生が小さく呟いた。
「先生、すぐ手当てしますから」
潟の背中から先生をゆっくり下ろす。なるべく刺激しないように、素早くゆっくりだ。
「手当無用。滅びるべき者は助けてはならないのが……理じゃ」
「先生は滅びるべきじゃありません!」
精霊共通の理だ。そんなこと分かっている。でも認めない。先生が滅ぶべきだなどと、僕は絶対認めない。
先生の了解も得ずに、傷口へ涙湧泉の水を捩じ込んだ。これで完治まではいかなくても多少楽になるはず。
そう思ったのに、期待した効果は現れなかった。一向に良くならない。
ならばと水球を先生の口元へ持っていったら拒絶されてしまった。
「無駄じゃ。儂は、海の波じゃ。淡水で……、領域……固定されたそなたの……水は合わん」
不甲斐ない。救いたい精霊を救えないなんて……。
「じゃ……じゃあ、こっちを! 桀さんが持たせてくれた薬があって……」
「不要じゃ!」
勢いよく拒絶されて、ビックリしてしまった。先生は先生で大きな声を出したので、咳き込んでしまった。
早く傷口を塞がないと。せめて止血をしないと……潟の上着が染まり始めている。
先生は少し呼吸を押さえてから、僕の手首を掴んだ。
「言い方がキツかったの。グッ、ゴホッ……良ければ潟にやってくれんか。腕を……怪我しておる」
潟に目を向けると、腕の服が破れ、皮膚がめくれていた。先生の魄を使った睌にやられたのだろう。
潟に水球を譲って傷を塞いだ。残念ながら服は直せない。竜宮城での戦いで既に服は穴が空いている。これ以上破れたらただの布切れになりそうだ。
『スラスター並びにスタビライザー故障。揺れが大きくなります。ご注意下さい』
エムシリさんがそう言った直後、ガクンッと大きな揺れが来た。乱気流だ。
「ん? ……おぉ、お、隼どの。ご健在であったか」
先生がエムシリさんの姿を見て、細い目を更に細めた。
「せ、先生。エムシリさんのこと知っているんですか? やっぱり地図の精霊ですか?」
「絵毟? 隼どのは精霊ではない。AIという種族じゃ」
精霊ではない?
地図の精霊ではないのか。隼にしては平べったいというか、翼がないというか。
「隼どのは、霽と儂が……水の星から、連れ帰っ……グッ、ゴフッゴッ」
先生が大量に血を吐いた。
どうしたら……どうしたら良いんだ。
どうしたら先生を助けられる?
「ベルさま、聞こえますか!」
縋る思いでベルさまに通信を試みた。でも繋がる気配はない。水球を通ぜは繋がるかもしれないと、うっかり大水球を作ってしまったら、菳が驚いて飛び跳ねた。
通じるなら水球でも大水球でも何でも良い。ただ、前回僕が一方的に切ってしまったから、怒って無視されてしまうかもしれない。
その間に潟が先生をゆっくり横たえた。瓦礫や枝が少なく、芝生が深いところを選んでいる。
『雫、良かった無事か! すぐ戻れ! 水の星と……』
「先生を助けてください!」
ベルさまと繋がったことに安堵して、要件を一方的に述べる。僕に対して怒りよりも無事を喜んでくれたことに気づいたのは、発言したあとだった。
「僕は無事です。恒山が大変で……先生が死にそうです!」
『待て待て、落ち着いて。恒山以外の五山も噴火を起こして危機的状況だ。先々代がいるなら連れて戻れ』
「儂は……戻らん」
先生の息がヒューヒュー音をたて始めた。横になったことで胸が上下に大きく動いている。苦しそうだ。
「雫さま、もう父を楽にしてくださいませんか?」
「嫌だ!」
何故、そんなことを言うんだ。潟は父親を助けたくないのか。
「魄失になった身です。もう……」
「魄を囮にするために魄失になってただけだ! 先生は何も……」
『漣が魄失になった?』
ベルさまにも聞かれてしまった。先生はもう自分の力だけでは起き上がることも出来ない。潟の手を借りて上体を起こすと、両方の拳を地面につけた。
僕に、いや、僕の持つ水球に向かって頭を垂れている。ベルさまに見えるはずはないのに。
「御上に申し上げ……す。小波の漣、この時を、以……て、お役目終えたく……」
先生の役目は僕の指南役だ。ベルさまの補佐をしていたこともあるけど、それに役職があったかどうかは僕は知らない。
『…………そうか。戻らないのか』
「お別れを、申し……げます」
『大義であった』
ベルさまも先生を助けてはくれない。
僕が? 僕が間違っているのか?
先生はヒューヒュー音を立てながら、大きく息を吸い込んだ。
「御上の世がいく久しく健やかにあらんことを」
ベルさまの言葉に先生が深々と頭を下げた。額が地面に完全に着いている。多分、魄を支えられないのだろう。
『師匠……心安らかに、ゆっくりお還りください』
ベルさまから労いの声がかかって、潟が先生を起こした。先生は潟の腕に抱えられ、息も絶え絶えだ。
『雫。漣を見送ったら、すぐに王館に戻れ。良いね』
「あ、べ、ベルさま!」
今度はベルさまから通信を切った。繋ごうとしても、受けてはもらえそうにない。
「……ずく、よ。そう、泣く……ない。年寄り……逝く、は理に敵って……る」
先生に言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。
自分でも、もう先生が助からないと分かっていたらしい。でもそれを認めたくなくて……。
「潟……巻き込……ですまんな」
「父上。私は……」
潟は泣いてはいない。でも言葉に詰まっている。涙を我慢しているのは明らかだった。
潟が泣いていないのに、僕が泣くわけにはいかない。ぐっと涙を飲み込んだ。鼻の奥がキーンと痛む。
「そなた……母……元へ、参ろ……」
先生の声がだんだん小さくなる。先生は震える片手を上げて、背潟の前髪を撫で付けた。
「儂が……理王に、なら……ければの」
「父上。私は理王の父上を尊敬しております」
先生の魄は輪郭が朧気になってきた。睌のように灰になるわけでもなく、空気に溶けていくようだ。
潟は自分の髪に置かれた先生の手を取って、額にくっつけた。
「片付け……頼んだぞ」
「お任せください」
二人だけの時間が流れていく。
先生の魄が完全になくなっても、潟はしばらく座り込んだままだった。




