301話 潟の心
先生を殺す?
潟にそんなこと出来るわけない!
「潟! 駄目だ! 絶対駄目だ!」
駆け出そうとした僕の目の前に水壁が現れた。先生の構成した壁だ。僕の行く手を阻む壁からでさえ、先生の理力を感じてしまう。
先生を殺すなんて……勿論、僕にも出来るわけない。潟は返事をしない。でも睌に向けた剣の動きがやや速まった。
『潟、やるのじゃ!』
やっぱり潟から返事はない。でも本気が感じ取れる。潟は先生を殺すつもりだ。
先生の姿をした睌の周りに魄失が群がってきた。睌を狙った潟の剣に何体か巻き込まれていた。
「くそっ!」
『雫、待つのじゃ!』
先生の制止する声を無視して、水壁を突き破った。
見ているだけなんて出来ない。
睌の脱け殻に魄失はあまり寄ってこない。時々二、三体が近くから湧いてくるけど、菳が全て踏み潰している。強力な足技に今のところ僕の出番はない。離れても問題ないと踏んだ。
潟と目があった。
それで思い止まってくれると思ったのに、潟は僕から目を逸らした。
長い足で睌の足を払う。睌は肩から倒れこんだ。いくら熟練された先生の魄でも老体は老体だ。本気の潟に体術、剣術では敵わないだろう。ましてや使い慣れない他人の魄だ。
理術なら先生の方が格段に上だけど、その理術も睌が使いこなせているとは言い難い。
睌は起き上がれずにいる。そこへ潟が斜めに大剣を振り下ろす。
「やめろっ!」
キンッ! と高い金属音がして、潟の大剣を玉鋼で抑え込んだ。
「雫さま、危険です! お下がりください」
「潟が下がれ! 命令だ」
命令と言うと潟はビクッと肩を跳ねさせた。一瞬の隙が出来た。睌を捕らえるチャンスだ。
「『水の……』っ!」
水の箱で睌を捕らえてしまおうと突きだした指を潟に払われた。
「私は雫さまに忠誠を誓っております。雫さまを守れない命令は……聞けません!」
潟が大剣を横に振った。たったひと振りで魄失が何体も消えていった。
「あらあら、魄失たちも元理王の魄を試してみたいようですわ。転貸して差し上げようかしら」
睌が僕たちから離れていた。つかさず潟が飛びかかる。砂埃が舞い上がって、短い時間、周りが見えなくなった。
僕は動けないでいた。視界が悪いからではなく、潟の気持ちを読み取れてしまったから。
潟もまだ迷いがある。潟の中で二つの気持ちが行ったり来たりしている。
先生の魄を斬るという意思は、僕のためという強い思いからだ。そして、斬りたくないという気持ちは純粋な自分の願望だ。
その二つが潟から流れてきたとき、とても苦しかった。拮抗する二つの気持ちが苦しいのは勿論だ。でも何故、僕のために戦おうとするのか、理解できない。どうしてそこまで僕のことを考えてくれるのか、申し訳なさで苦しい。
潟は今、自分とも戦っている。頼むから僕のためだなんて思わないで、自分の意思で止めて欲しい。捕まえて帰れば済むことだ。
『雫。甘い考えを捨てるのじゃ。儂を助けるために捕縛して連れ帰ろうなどと思うでない』
先生には僕の考えなんてお見通しだった。
『儂は二度と王館には入らん。魄失になった者を王館に入れるほど……そなた、愚かではあるまい?』
「愚かでも良いです。先生と一緒に帰るんです!」
キッと先生を睨む。先生の目がどこにあるかハッキリ分かった。
お互い何も言わない。
ただ潟と睌がやりあう音だけが聞こえてくる。視界の端で潟が大剣を縦に振り下ろしていた。睌は氷壁か氷盤で防いで、その隙にその場から逃げてしまう。先生の魄に慣れてきたのか、理術を使う回数が増えてきた。
潟がそれを追って、石碑に近づこうとする睌を遠ざける。その繰り返しだ。
戦っている様子からは、潟の方が優勢に思えた。睌は石碑を狙っているだけで、防戦一方だ。
たまに良く分からない理術を放っているけど、潟を自分から離したいだけで、積極的な攻撃には見えない。
「帰るんです!」
鯨の片目を両目で見つめる。先生は長い時間をかけて瞼を一往復させた。
『しばらく会わぬ内に、頑固さに拍車がかかったのぅ。……良い子に育ったものじゃ』
先生の顔が僕から離れていく。ヒレが僕の頭を掠めていった。触れるか触れないか……多分、ギリギリ触れていない。
『潟。今一度言う。儂の魄を殺すのじゃ。儂からの最後の課題じゃ!』
課題というには重すぎる。
あまりにも酷な物言いに、だんだん腹が立ってきた。潟の気持ちも知らないで、勝手に難題を出す先生も先生だ。
目の前を通りすぎる先生のヒレをグッと掴む。
『ぐぁあっ! 何をするんじゃ! 離さぬか!』
先生の予想外の反応にパッとヒレを解放した。
うっかりしていたけど、先生も今は魄失だった。魂を直に触れないように、と父上からも言われた。せめて先生が人型だったら思い出したかもしれないけど、すっかり忘れていた。
先生の叫び声が上がるのと、ほぼ同時……。
気持ちの悪い南風が流れ込んできた。
微かではあるけど、不穏な空気の流れを感じ取った。
南の空を見ると、遠くの空でおかしな雲が生まれていた。
積乱雲にも見えるけど、灰色の不気味な雲だ。その雲に繋がるように柱のように伸びた煙が見える。
『……衡山が大噴火を起こしたか』
先生がそう呟いた直後、僕の理術が破られたのを感じた。衡山を覆っていた半水球だ。
小規模な噴火を起こす度に、魄失が噴き出していた。それに魄失を閉じ込めていたはずだったけど、どうやら限界が来たらしい。
先生の叫び声と衡山の爆発に、皆が気を取られた。その一瞬の間に、睌が石碑に手を掛けた。睌は先生の理術を使って石碑を凍らせている。
あのままでは石碑が割れる。
先生が何か言った気もしたけど、頭に入ってこなかった。足が勝手に動いて、睌との距離を一気に詰めた。
冷たい表情をした潟の横を通りすぎて、先生の魄に手を伸ばす。腕を掴んだ。思いの外あっさりと睌を捕らえた。
石碑から引き離そうとすると、掴んだ腕がビクンと跳ねた。
ズルズルと重みが加わって僕の方が引きずられそうだ。視線をずらすと、崩れ落ちる睌の背中に潟の大剣が深々と刺さっていた。
「まぬ……さ」
口から灰のような細かい粒子が、煙のように湧いてきた。
腹まで突き抜けた大剣のせいで、魄が完全に倒れることを阻んでいる。目は焦点が合っていない。口の端からは赤いものが流れていた。
トンッと背中に軽い衝撃を受ける。菳が僕の背中に前足をついていた。
「菳……睌は?」
菳が頻りに跳ねながら、元いた場所へ戻る。睌の体もサラサラと灰になって舞い上がっていた。斬った腕も、傘も全て灰になってしまった。
睌を倒した。舞う灰を見上げて、鯨がいないことに気づいた。
「先生?」
菳がぶぅと鼻を鳴らした。兔も鳴くのかと、場にそぐわない驚きを覚える。菳を抱え上げ、先生の気配を探す。
鯨はいなくても、まだ波の理力を感じる。でもとても弱い。
「ゴフッ……ゴッ……カッ、ハッ。やれやれ……殺るなら、ひと思いに、グッ……殺らんかい」
先生の声だ。ちゃんと先生の話し方だ。
「先生?」
潟が先生の魄から剣を抜いていた。痛みに耐える先生の顔より、表情のない潟の方が辛そうだ。
「先生、戻ったんですね!」
先生の魄に先生の魂が戻ってきた。嬉しくて菳を落としそうになった。ぶぅぶぅ言う菳を抱え直して、先生に駆け寄る。
「来るでない。石碑が壊れる。……ゴフッ……ゴッ……蓋が開く。潟、儂を下ろせ。時間を稼ぐ」
潟は上着を脱いで、先生をそっと包んだ。傷口を隠して、先生を抱えこむ。
「先生、喋らないで下さい。今、手当てを!」
「無用……じゃ」
「潟、先生をひとまず竜宮城へ」
竜宮城なら、先生を休ませる場所がある。恒山に接続したままだ。潟は何も言わずに僕に付いてきた。
背後でズシリと鈍い音がして、石碑が倒れた。気にはなったけれど、振り返る時間はなかった。




