299話 免の目
崖の下から魄失ではない者がフワッと上がってきた。重力を感じさせない動きに、経験したばかりの嫌なことを思い出した。
全身灰色の姿は、名を聞くまでもなく免の一派だということが分かる。
ただ、今までの免の手下とは少し違って格好がおかしい。戦闘着とは思えないヒラヒラした服を纏っている。
スカートかドレスか……僕には違いが分からない服は中に何か入っているのではないかと思うくらい膨らんでいる。その上、襞が多くて、戦いには向かなさそうだ。
思い返せば、逸は体にピッタリくっつく長いドレスを着ていた。肩は剥き出しで寒そうだったけど、動きやすそうではあった。
それとは対照的に、首までしっかり覆われていて腕も長袖だ。袖にも首元にも襞が所狭しと並んでいる。
それに雨も降っていないのに傘をさしている。日射しも然程強くはない。服と同じように襞が多い。傘としての機能に問題がありそうなほどだ。
傘が顔に影を落としている。顔が免に似ているかと言われたら……よく分からない。けど穏やかに笑っているのを感じた。この場に似つかわしくない。
「ごめんあそばせ。私は監視者の睌。短いお付き合いとなりましょうが、お見知りおきくださいませ」
「監視者?」
睌は音も立てずに着地をし、必要以上に近寄ってこない。崖を背後に辰様子は、魄失を恐れていないようだった。
「はい、雫さま。私は免さまの目でございます。私が見たものは全て、免さまもご覧になりますわ」
また免の一部か。
……ということは今も睌の目を通して、僕たちのことを見ているわけか。趣味が悪い。
「自分で来ればいいものを。免は思いの外、出不精なんだな」
僕がそう言うと上空から氷弾が降ってきて、睌の後ろに落ちた。先生が落とした氷弾だ。息をするように魄失を倒している。
上を見ると、位置の分からないはずの目と視線が交わった。魄失は任せろと暗に言われたようだ。
「魄失に紛れれば気づかれないと思いましたが、甘かったようですわ」
睌は振り向こうとして、思い止まったように正面に向き直った。
免に見られているようで気持ちが悪い。
「そうそう。代行者と強行者が宜しくと申しておりましたわ」
「代行者?」
睌はおや、というように眉を跳ねさせて、傘の柄をくるくると回し始めた。
傘を持つのと反対の手を自分の頬に当てる。その手には服と同じ色の手袋が填められている。流石に襞はついていないようだ。
「あら、あの二人は名乗りませんでしたか? 挽と搀という両手なのですが……あぁ、やはりご存じでしたね」
挽と搀の名を聞いてすぐに分かった。僕の顔を見てそれに気づいた睌はひとりで納得したようだった。
「聞きましてよ。何でもあの二人を追い詰めるところまで言ったとか……私、感動いたしましたわ」
免の配下に感動されるような覚えはない。逆に馬鹿にされているようで腹が立ってきた。
『雫よ。のんびりお喋りしておる馬鹿がどこにおる!』
頭の中で先生の声が響く。怒られてしまった。
相手のペースに飲み込まれてしまったことが恥ずかしい。攻撃の構えを取りながら、睌との距離を少し詰めた。
「お止めくださいませ。戦いに来たのではありませんわ。私は戦闘向きではありませんの。私の仕事は諜報と工作……それと伝書」
手を服の襞に突っ込み、一羽の兔を取り出した。片手で下から掴むように支えられ、兔は大人しくしている。
王館で免を追い詰めたとき、兔が湧いたことは記憶に新しい。
「こちらの愛玩動物を差し上げますわ」
「免の兔など欲しくない!」
一歩踏み込んでから、軸足に力を込めて一気に距離を詰めた。剣を横に構えて、そのまま斬り込む。
睌は片手で兔を抱えたまま、器用に傘で僕の剣を受け止めた。
「伝わりませんでしたわね。お返しに上がりましたわ。お受け取りくださいませ」
最小限の動きで僕の剣を払い、兔をポイッと投げてきた。
免の兔など受け取りたくない。でも本来なら俊敏な動きの兔が、投げられたままの格好で動きもしない。
その様子を見て思わず兔を受け止めた。地面に叩きつけられる寸前だった。
「可愛らしいでしょう? 菳という名だそうですよ」
睌は傘をくるくる回して満足そうだ。腕の中に収まった兔を見下ろす。
「菳……なのか?」
じっと見上げてくる瞳は、左右の色が違う。
虹彩色違の異なる目は混合精の証だ。片方は湖水を思わせる深い緑色。もう片方は渋い赤茶色……銅の色だ。
鼻をひくひくさせて僕に少し顔を近づけた。腕の中でトットッ……と速い鼓動を感じる。
「免さまは名を変えて配下になさるおつもりでした。ご自分の寵愛する側近が免さまの配下に加わったら、雫さまはさぞ悶えるだろうと」
怒りが込み上げてきた。ギリッと菳を握りつぶしそうになる。
「大変お喜びでしたわ。その子が雫さまにどのように可愛がられているのか、隅から隅までお調べに……あら、ごめんあそばせ。野暮なことでございましたわね」
兔を地面に下ろす。逃げ出すこともなく、ピッタリと僕の足にくっついている。
「ですが予想よりも雫さまと魂が結び付いており、引き剥がせなかったのです」
「菳に何をした?」
自分でも思ったよりも低い声が出た。
先生が氷雨を降らせている。人間の魄失が湧いてきたところで先生の敵ではない。
そして僕の敵はこの睌だ。
飄々と語りながら傘をくるくる回す姿に、怒りが湧いてくる。自分の魄が冷えていくのがよく分かった。冷たい怒りが全身を支配していく。
指先まで冷たさが浸透して、手が勝手に剣に伸びていく。
「お話をお聞きくださいませ。配下になさることに失敗なさったので、せめてかわいい姿で雫さまにお返しせよ、と免さまが仰せで……っ」
自分でも信じられないくらい素早く足が動いた。気づけば正面にいたはずの睌は背後に立っていた。睌が動いたのではなく、僕が睌に斬り込んだ結果だ。少し遅れて剣に手応えがやってくる。
振り向くと睌の傘と腕が落ちていた。
「……やりましたわね」
「だから何だ?」
睌は悔しそうにしてはいても、痛そうではない。屈みながら腕を拾おうとしたところへ影が差し掛かった。
大剣の影が見える。
「潟。殺すな」
「心得ました!」
潟が飛び降りてくる。その勢いを保って剣を睌に振り下ろした。
「っ!」
潟の剣が肩から首にかけて走る。睌の自慢の襞が何枚も飛んでいった。菳が僕の足を追いかけてきた。
「二対一ですか。部が悪いですわ」
「三対一だ」
透明な箱が落ちてきて睌を捕らえた。先生が純度の高い氷を落としてくれたようだ。
僕と潟、先生に対して睌ひとり。
睌も菳と同じ目に合わせてやる。




