298話 師との再会
先生の元の姿は鯨だったのか。
あまりの大きさに呆然と見上げることしか出来ない。竜宮城はボロボロの骨組みが露になっているけど、それでもその大きさは分かる。
竜宮城を全て影で覆ってしまうほどの大きさだ。理力量に匹敵すると言っても良いかもしれない。水がないのに波の音がする。
これで全盛期の十分の一だというのだから恐ろしい。全盛期の先生を知りたいと思う反面、出会いたくないとも思う。
「先……」
ゾクゾクッと鳥肌が立って声をかけるのに失敗した。鯨の目がどこにあるのか分からないのに、睨まれた気がした。
『雫さま! 父が魄失化しております!』
「はぁ!?」
こんなにハッキリした存在のどこが魄失なのか。
いや、でも……確かに魄は石碑に凭れたままだ。今もそのままの姿勢を保っている。
まるで死んだように動かない。呼吸も脈もなかったのは魂が抜けているから……だとすれば、説明がつく。
先生が生きている。ならばこれ以上の朗報はない。
問題は何故、魄失になってしまったのか……だ。
水太子として魄失は退治しなければならない。でも倒せる気がしない。こんなに強力な気配を魄失から感じ取ったのは初めてだ。
今も崖の下では山の表面から魄失が湧いているはずだ。長い時間、崖に背中を見せているのは危ない。
先生の元まで昇りたい。斜面を気にしながら雲を集めていく。
しかし、一向に雲が集まらない。モヤモヤしたものが手のひら大に出来るだけで、それ以上大きくならない。
急に理術が使えなくなったのかと不安に駆られる。試しに水球でも作って確かめてみようとしたところで、鯨がこちらへ向かってきた。
僕に気づいてくれた……という淡い期待は瞬時に崩れた。
口を豪快に開けて向かってくる様子からは、好意を感じられない。上下の顎で僕を捕えようとしている。
「先生っ! 僕です! 雫です!」
呼び掛けには応じない。制止するのを諦めてギリギリで屈んで避けた。
鯨の腹が頭を掠めていくのを感じつつ、すぐ近くから悲鳴を浴びた。
僕の真横で魄失が鯨に飲み込まれている。その悲鳴が終わる頃には、別の魄失が崖から這い上がってきていた。その魄失たちも次々と鯨に飲み込まれていく。
魄失が魄失を飲み込む事態を、僕の頭が飲み込めない。
『潟さん。何か……先生が魄失食べてるんだけど……』
「はい、ここからでも見えます。どうやら理性はあるようですね」
魄失化したと言っても無闇矢鱈に精霊を襲うことはないらしい。そうでなければ僕も潟さんもとっくに襲われている。
さっきは狙われたと思ったけど、結局、僕の近くに潜んでいた魄失を退治してくれただけだった。
大方の魄失の処理を終えると、先生はゆっくりと向きを変えた。
『全く……儂の大事な教え子を卑劣に狙いおってからに……』
何かブツブツ言っている。思念が強すぎて頭の中に直接囁かれているみたいだ。
先生がちょうど頭上にやって来て、僕に影を落とした。
『こんなところで何をしとるんじゃ。仕事はどうした?』
先生だ。先生の声だ。
もはや懐かしい。何年も……何十年も聞いていなかった気がする。
僕の返事を待たずに壊れた竜宮城の方へゆったりと泳いでいく。
竜宮城に残った潟さんに言ったのかもしれないけど、この際どっちでも良い。
「先生ー、お迎えに来ましたー!」
先生に聞こえるように、口元に手を添えて大声で語り掛ける。
鯨がゆっくりと向きを変える。じれったくなるほどゆったりとした動きで、僕に正面を向けた。
やっぱり目がどこにあるのか分からなかった。
『なんじゃ、わしは迎えなど頼んではおらんぞ』
厳しい。紛れもなく先生だ。しかられているのに自然と口元が緩む。きっと変人に見えるに違いない。
『父上……雫さまは父上を心配してここまで……』
『要らぬ心配じゃ。潟、そなたは雫を止めるべきであろう。何故そんな離れたところに……ん? 怪我をしておるのか?』
鯨がゆっくりと竜宮城へ向き直る。やや前屈みになって、顔先が壊れた屋根にくっつきそうなところまで頭を下げる。
潟さんが気まずそうにしている姿が想像できた。
『そなたは子供の頃からよく目を怪我するのぅ。どれ……』
鯨が潮を拭いた。
飛沫が雨のように落ちてくる。頬を伝って流れてきた水滴が口に流れてくる。こっそり舐めたら案の定、塩辛かった。
塩を含んでいるなら潟さんの治療には最適だ。先生は小言を述べつつ、ちゃんと息子さんを心配している。
『父上。感謝します。止血できました』
『ふん。軟弱者が。そのような体で王館勤めとは成長しとらんのぅ』
小言が増えた。
助けてあげないと潟さんが参ってしまう。
潟さんは少し休むように声をかけ、通信を切った。
「先生、こんなところで何をしているんですか? ここは魄失だらけで危険です」
僕が声を上げると、どぅっと波が押し寄せた。勿論、本物の波はない。先生が笑っているだけだ。
笑いの呼吸に合わせて波が押したり引いたりを繰り返している。
『儂の身を案ずるとは……。雫、そなたは成長したようじゃな』
まずい。潟さんと比べられた。潟さんは面白くないだろう。潟さんに聞こえていないことを祈ろう。先生は楽しそうだけど、僕は内心冷や汗をかいている。
「そ、そうじゃありません! 先生、何でこんなところにいるんですか?」
『そなたらこそ、何故ここにおるのじゃ。何故、ここに儂がおると分かった?』
僕の質問を綺麗に躱して、逆に質問された。
「海豹人が教えてくれたんです。先生をここで見たって」
『海豹人? そなた海豹人を手懐けたのか?』
沾北海での名付けを先生に話すと、また波が押し寄せてきた。
『ほっほっ。領域しか興味を示さない貴奴等を懐柔しおって。なかなかやりおるのぅ』
誉められている……と思っていいのだろうか。先生はとても嬉しそうだった。
『しかし、無駄足じゃ。帰るが良い』
「先生!」
楽しそうな様子とは対称的に、一緒に戻ってくれる気はないらしい。
そっぽを向いて、また湧いてきた魄失を飲み込みに行ってしまった。
何としても先生を説得しなければ、王館に帰れない。菳がいない今、王館に帰れば僕も簡単には王館から出られなくなる。
先生の知恵や力を借りて、菳を助け、免を倒したい。
先生の近くに行って話をしたい。ここでも話は通じるけど、側に行きたい。再び雲を作ろうと試みる。
けれどやっぱり雲はできなかった。
鯨から視線を感じる。目の位置が分からないのに視線が分かるのは不思議だ。
『雫よ。この高度でそなたが乗るような雲は出来ん。教えておらんかったかのぅ』
初耳だ。
「指南書に……」
『指南書などに書いてはおらん。そなたはよく学んだ。儂が教えることはもうないが、実用的なことは実生活で会得せよ』
つまり僕の経験不足が露呈されたわけだ。でも少し嬉しい。
先生からお説教……元へ、助言をうけるのも久しぶりだ。今は僕を導いてくれる精霊がいない。
「先生、お願いします。僕の……」
『雫、分かるであろう。儂はもう魄失じゃ。二度と戻ることはない』
「で、でも、お魄はまだご健在で……あそこに!」
石碑の前に座り込む先生を指し示す。少し遅れて冷たい波が押し寄せてきた。先生の気持ちが冷えきっているようだ。飲み込まれそうで怖さを覚える。
『アレは囮じゃ』
「おとり?」
物騒な話だ。自分を囮にするなどと、物騒であると同時に勇気のいる話だ。
『左様。人間とはいえ魄失には違いない。魄があれば欲しがるのが魄失というものよ』
「人間! 先生、人間のこと、ご存じなんですか?」
ここで話し込むのは危険だ。でもついつい前のめりになってしまう。
『知っておるぞ。知っておるが、今、その話をする気はないの』
「先生!」
『招いておらぬ客が来たようじゃ』
先生の知識に縋ろうとしたところを、不快な空気に邪魔をされる。
湿り気を帯びた空気の中に、乾いた風が一筋なだれ込んできた。
「あら、嫌ですわ。お邪魔する気はございませんわ。どうぞお続けになって。お話が終わるまで待って差し上げますわ」
媚を売るような女性の声。姿は見えないはずなのに、味わいたくない懐かしさを感じ取ってしまった。




