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水精演義  作者: 亞今井と模糊
九章 众人放免編
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298話 師との再会

 先生の元の姿は鯨だったのか。

 

 あまりの大きさに呆然と見上げることしか出来ない。竜宮城はボロボロの骨組みが露になっているけど、それでもその大きさは分かる。

 

 竜宮城を全て影で覆ってしまうほどの大きさだ。理力量に匹敵すると言っても良いかもしれない。水がないのに波の音がする。

 

 これで全盛期の十分の一だというのだから恐ろしい。全盛期の先生を知りたいと思う反面、出会いたくないとも思う。

 

「先……」

 

 ゾクゾクッと鳥肌が立って声をかけるのに失敗した。鯨の目がどこにあるのか分からないのに、睨まれた気がした。

 

『雫さま! 父が魄失化しております!』

「はぁ!?」

 

 こんなにハッキリした存在のどこが魄失なのか。

 

 いや、でも……確かにからだは石碑にもたれたままだ。今もそのままの姿勢を保っている。

 

 まるで死んだように動かない。呼吸も脈もなかったのは魂が抜けているから……だとすれば、説明がつく。

 

 先生が生きている。ならばこれ以上の朗報はない。

 

 問題は何故、魄失になってしまったのか……だ。

 

 水太子として魄失は退治しなければならない。でも倒せる気がしない。こんなに強力な気配を魄失から感じ取ったのは初めてだ。

 

 今も崖の下では山の表面から魄失が湧いているはずだ。長い時間、崖に背中を見せているのは危ない。


 先生の元まで昇りたい。斜面を気にしながら雲を集めていく。

 

 しかし、一向に雲が集まらない。モヤモヤしたものが手のひら大に出来るだけで、それ以上大きくならない。

 

 急に理術が使えなくなったのかと不安に駆られる。試しに水球でも作って確かめてみようとしたところで、鯨がこちらへ向かってきた。

 

 僕に気づいてくれた……という淡い期待は瞬時に崩れた。

 

 口を豪快に開けて向かってくる様子からは、好意を感じられない。上下の顎で僕を捕えようとしている。


「先生っ! 僕です! 雫です!」

 

 呼び掛けには応じない。制止するのを諦めてギリギリで屈んで避けた。

 

 鯨の腹が頭を掠めていくのを感じつつ、すぐ近くから悲鳴を浴びた。

 

 僕の真横で魄失が鯨に飲み込まれている。その悲鳴が終わる頃には、別の魄失が崖から這い上がってきていた。その魄失たちも次々と鯨に飲み込まれていく。

 

 魄失が魄失を飲み込む事態を、僕の頭が飲み込めない。

 

『潟さん。何か……先生が魄失食べてるんだけど……』

「はい、ここからでも見えます。どうやら理性はあるようですね」

 

 魄失化したと言っても無闇矢鱈に精霊を襲うことはないらしい。そうでなければ僕も潟さんもとっくに襲われている。

 

 さっきは狙われたと思ったけど、結局、僕の近くに潜んでいた魄失を退治してくれただけだった。

 

 大方の魄失の処理を終えると、先生はゆっくりと向きを変えた。

 

『全く……儂の大事な教え子を卑劣に狙いおってからに……』

 

 何かブツブツ言っている。思念が強すぎて頭の中に直接囁かれているみたいだ。

 

 先生がちょうど頭上にやって来て、僕に影を落とした。


『こんなところで何をしとるんじゃ。仕事はどうした?』

 

 先生だ。先生の声だ。


 もはや懐かしい。何年も……何十年も聞いていなかった気がする。

 

 僕の返事を待たずに壊れた竜宮城の方へゆったりと泳いでいく。

 

 竜宮城に残った潟さんに言ったのかもしれないけど、この際どっちでも良い。

 

「先生ー、お迎えに来ましたー!」

 

 先生に聞こえるように、口元に手を添えて大声で語り掛ける。

 

 鯨がゆっくりと向きを変える。じれったくなるほどゆったりとした動きで、僕に正面を向けた。

 

 やっぱり目がどこにあるのか分からなかった。

 

『なんじゃ、わしは迎えなど頼んではおらんぞ』

 

 厳しい。紛れもなく先生だ。しかられているのに自然と口元が緩む。きっと変人に見えるに違いない。

 

『父上……雫さまは父上を心配してここまで……』

『要らぬ心配じゃ。潟、そなたは雫を止めるべきであろう。何故そんな離れたところに……ん? 怪我をしておるのか?』

 

 鯨がゆっくりと竜宮城へ向き直る。やや前屈みになって、顔先が壊れた屋根にくっつきそうなところまで頭を下げる。


 潟さんが気まずそうにしている姿が想像できた。

 

『そなたは子供の頃からよく目を怪我するのぅ。どれ……』

 

 鯨が潮を拭いた。

 

 飛沫が雨のように落ちてくる。頬を伝って流れてきた水滴が口に流れてくる。こっそり舐めたら案の定、塩辛かった。

 

 塩を含んでいるなら潟さんの治療には最適だ。先生は小言を述べつつ、ちゃんと息子さんを心配している。

 

『父上。感謝します。止血できました』

『ふん。軟弱者が。そのようなていで王館勤めとは成長しとらんのぅ』

 

 小言が増えた。

 助けてあげないと潟さんが参ってしまう。

 

 潟さんは少し休むように声をかけ、通信を切った。


「先生、こんなところで何をしているんですか? ここは魄失だらけで危険です」


 僕が声を上げると、どぅっと波が押し寄せた。勿論、本物の波はない。先生が笑っているだけだ。

 

 笑いの呼吸に合わせて波が押したり引いたりを繰り返している。

 

『儂の身を案ずるとは……。雫、そなたは成長したようじゃな』

 

 まずい。潟さんと比べられた。潟さんは面白くないだろう。潟さんに聞こえていないことを祈ろう。先生は楽しそうだけど、僕は内心冷や汗をかいている。

 

「そ、そうじゃありません! 先生、何でこんなところにいるんですか?」

『そなたらこそ、何故ここにおるのじゃ。何故、ここに儂がおると分かった?』

 

 僕の質問を綺麗にかわして、逆に質問された。

 

海豹人セルキーが教えてくれたんです。先生をここで見たって」

海豹人セルキー? そなた海豹人セルキーを手懐けたのか?』

 

 沾北海での名付けを先生に話すと、また波が押し寄せてきた。

 

『ほっほっ。領域しか興味を示さない貴奴等きやつらを懐柔しおって。なかなかやりおるのぅ』

 

 誉められている……と思っていいのだろうか。先生はとても嬉しそうだった。

 

『しかし、無駄足じゃ。帰るが良い』

「先生!」

 

 楽しそうな様子とは対称的に、一緒に戻ってくれる気はないらしい。

 

 そっぽを向いて、また湧いてきた魄失を飲み込みに行ってしまった。

 

 何としても先生を説得しなければ、王館に帰れない。菳がいない今、王館に帰れば僕も簡単には王館から出られなくなる。

 

 先生の知恵や力を借りて、菳を助け、免を倒したい。

 

 先生の近くに行って話をしたい。ここでも話は通じるけど、側に行きたい。再び雲を作ろうと試みる。

 

 けれどやっぱり雲はできなかった。

 

 鯨から視線を感じる。目の位置が分からないのに視線が分かるのは不思議だ。

 

『雫よ。この高度でそなたが乗るような雲は出来ん。教えておらんかったかのぅ』


 初耳だ。

 

「指南書に……」

『指南書などに書いてはおらん。そなたはよく学んだ。儂が教えることはもうないが、実用的なことは実生活で会得せよ』

 

 つまり僕の経験不足が露呈されたわけだ。でも少し嬉しい。

 

 先生からお説教……元へ、助言をうけるのも久しぶりだ。今は僕を導いてくれる精霊がいない。

 

「先生、お願いします。僕の……」

『雫、分かるであろう。儂はもう魄失じゃ。二度と戻ることはない』

「で、でも、おからだはまだご健在で……あそこに!」

 

 石碑の前に座り込む先生を指し示す。少し遅れて冷たい波が押し寄せてきた。先生の気持ちが冷えきっているようだ。飲み込まれそうで怖さを覚える。

 

『アレはおとりじゃ』

「おとり?」

 

 物騒な話だ。自分を囮にするなどと、物騒であると同時に勇気のいる話だ。

 

『左様。人間とはいえ魄失には違いない。からだがあれば欲しがるのが魄失というものよ』

「人間! 先生、人間のこと、ご存じなんですか?」

 

 ここで話し込むのは危険だ。でもついつい前のめりになってしまう。

 

『知っておるぞ。知っておるが、今、その話をする気はないの』

「先生!」

『招いておらぬ客が来たようじゃ』

 

 先生の知識に縋ろうとしたところを、不快な空気に邪魔をされる。


 湿り気を帯びた空気の中に、乾いた風が一筋なだれ込んできた。

 

「あら、嫌ですわ。お邪魔する気はございませんわ。どうぞお続けになって。お話が終わるまで待って差し上げますわ」

 

 媚を売るような女性の声。姿は見えないはずなのに、味わいたくない懐かしさを感じ取ってしまった。

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