297話 師を求めて
『雫さま、尸解仙に何を消費なされたのですか? 三人も現れるとは、余程大切なものを消費なされたのではありませんか?』
「うん……実は」
釧を使ったと言おうとして、自分の手を見る。何故か消費したはずの釧が嵌まっていた。
代わりに鎏がなくなっている。釧と鎏の腕輪は絡まないように反対の手にしていたはず。
腕を間違えたのか……?
『雫さま、父の気配がします! 父がおります!』
僕の返事を待たずに、潟さんがややひっくり返った声をあげた。
海は遠いはずなのに、飲み込まれそうな波の気配がする。
『頂上に到着しました。案内を終了します』
興奮気味の潟さんとは対称的にエムシリさんの声は冷静だった。
「僕見てくるから、潟さんはそこで待機してて。エムシリさんのことお願い」
潟さんにしては珍しく、付いてくるとは言わなかった。足手まといになると思ったのか、エムシリさんが心配なのか。……それとも久しぶりに父親に会うのが不安なのか。
自分のところだけ半水球を解除する。潟さんとエムシリさんが襲われないように、ひとつはそのまま残した。
庭の端から身を乗り出す。うっかり立たないように匍匐前進だ。
流石に水精が管理する山というだけあって、岩肌が透明な氷で覆われている。透明で純度の高い氷のせいで、岩肌が黒いことがよく分かる。夜だったら竜宮との境が分からなかったかもしれない。
太陽は眩しいというほどでもなく、氷に反射しても目に刺さらない。辺りの霧はすっかり晴れて、適度に雲があって視界は良好だ。恒山の頂上にズルズルと這っていき、魄を全て恒山に運び終えたところで立ち上がる。
『立って入ること』が禁止なのだから、その解釈なら、『入ってから立ち上がる』ことは大丈夫だろう。案の定、火精の衡山のように結界に拒まれることはなかった。
頂上は意外と平らだ。それでもツルツルと滑る。改めて見ると、竜宮城は庭の部分が接続しているだけで、浮いている状態だ。流石に竜宮城全てが乗れる場所はそうそうない。
『雫さま……お気をつけください』
「分かってるよ」
潟さんも先生のことが気になっているのは事実だ。潟さんのためにも早く見つけてあげたい。
そう思って踵を返すとあっさり見つかった。
僕が降りた場所からそう離れていない場所。人工的に作られた高い石碑がある。そこに寄りかかるように先生は座っていた。
「っ……先、生」
声が掠れてしまった。
駆け寄りたいけど、氷で足が滑ってうまく進めない。氷を消してしまいたいところだけど、他所の山で勝手は出来ない。
出っ張っていた石に足を掛け、反動をつけて滑り出す。滑るなら滑ってしまえばいい。滑ることを逆手に取って、先生のところまで一気に滑り抜けた。
止まることの方が難しい。倒れ込むようにして、先生の目の前で止まる。先生は瞑想するように目を閉じて何の反応も返ってこない。
先生に駆け寄って、肩を揺さぶる。瞑想中に邪魔だと怒られても良い。罰として演習場を走らされたって構わない。
「先生っ! 漣先生、僕です。雫です! お迎えに来ました!」
先生の首がガクンと揺れて、寄りかかっていた石碑からズルリと落ちた。
「先……生?」
反応がない。
恐る恐る先生に触れる。
凍るように冷たいのは氷の上に座っているからだ。
手首に触れても脈を読めないのは、僕の手が傷だらけで感覚が鈍っているからだ。
「先生、迎えに来ました。こんな格好だけど雫です。王太子になったんですよ」
目を開けてくれない……わけではない。元々、目が開いているかどうか分からないからだ。
そうだ。そうに違いない。それしか考えられない。
冷たい先生を起こして、石碑に寄り掛ける。
『雫さま、父はおりましたか?』
「……ごめん、まだ。また後で連絡するね」
潟さんと繋がったままだった。何て言ったら良いのか分からなくて、一旦切らせてもらった。
先生を前に呆然と座り込む。先生の死など考えもしなかった。力が抜けてしまって動けない。
ベルさまへの連絡とか、潟さんへの伝え方とか、考えることはたくさんある。だけど、耳鳴りのように押し寄せる波の音がうるさくて、思考の邪魔をされる。
波の音……?
先生の冷たい魄に耳を寄せる。心臓の音すら聞こえない。それなのに何故、波の音がするのか。
どこから……?
波の音を辿る。滑る足場に気を付けながら先生から少し離れた。
石碑と反対側は急に地面が見えなくなっている。おそらく斜面になっているのだろう。
波の音はそこからだ。山だから水源がある可能性は高い。でも川とも湧水とも異なる音だ。そして理力も気配も小波そのもの。
振り向いて先生の居場所を確認する。ちゃんと石碑に寄り掛かったままだ。
手頃な岩に足を掛け、転げ落ちないように気を付けながら斜面を覗く。
「……っ!」
鼻の頭を風が切り抜けていった。仰け反ってバランスを崩してしまう。足を滑らせ、膝をついた。
鼻を触ってみる。切れていないことを確認できた。ギリギリ避けられたらしい。
免の一派か……?
でも何かに攻撃されたにしては次の一手が来ない。身構えているのが馬鹿馬鹿しく思えるほど、長い時間待っても攻撃されない。
もう一度、崖を覗き込む。息を止めてなるべく気配を消す。
斜面の下には魄失が二十……いや、三十はいた。うようよと這ったり飛んだり……何かを求めるように同じ場所を行ったり来たりしている。
元が何の精霊だったか分からない。理力をほとんど感じない。衡山で捕まえた魄失と一緒だ。人間の魄失に違いない。
様子を窺っていると、山の表面にあちこち空いた穴から、魄失がボコボコと生まれている。穴から出るのは大変らしい。孵化しようとする虫のようにウネウネと動きながら這い出している。
このままでは数が増える一方だ。まだ僕の存在には気づいていないようだけど、襲ってきたら流石にきつい。
でもここは水精の管理する山だ。魄失ならば、太子である僕が退治しなければならない。
「潟さん、魄失をたくさん見つけた。今から退治するけど、そっちに行くかもしれないから気を付けて」
『心得ました』
念のため潟さんに注意を促す。数が多いから一体ずつ相手にしていては拉致があかない。
大量の魄失相手にはそれ相応の理術がある。でも先生ですら、使ったのは数える程度という最高理術だ。
これは詠唱を省略できないのが難点だ。一斉に気づいて向かってきたら最悪だ。なるべく小声で詠唱を試みる。
「水の歌 奏でる者は 雫の名……」
飛び回っていた魄失何体かに気づかれた。案の定、僕の方へ向かってきたけど、数体なら詠唱しながらでも倒せる。
「曲をば作り いざ見送らん……『水洋葬送曲』!」
魄失を斬り倒しながら詠唱を済ませた。
崖下で屯していた多くの魄失を飲み込んで、太い太い水の柱が空まで伸びる。魄失たちの悲鳴は聞こえない。恐らく悲鳴をあげる暇もないくらいあっという間に理力に昇華されてしまったのだろう。
今いた魄失は片付いた。
でも魄失は後から後から湧いてくる。
秋の落ち葉のようだ。掃いても掃いてもキリがない。……いや、葉なら枝についている量がおおよそ分かる。でもこの魄失はいったいどれくらい湧いてくるのか……。
『雫さま!』
潟さんの切羽詰まった声がする。耳が痛い。
「潟さん、魄失が行った? すぐに助けに行くよ!」
取り逃がしたのかもしれない。魄失一体くらいに遅れを取る潟さんではないけど、今は怪我人だ。
『違います! 私は無事です! それより父がここに!』
上体を起こして振り向く。
巨大な鯨が竜宮城の上に浮かんでいるのがハッキリ見えた。




