296話 恒山進入
靄が濃い霧に変わった。
しかもただの霧ではなく氷霧だ。気温がグッと下がる。
その上、霧の粒ひとつひとつが意思を持って、襲ってくるようだった。僕が命じても避けてはくれない。建物内に入っていれば良かった。
顔が痛い。
顔だけではない。肌が出ているところは、首も手も痛い。
竜宮城が霧の中へ突入した途端これだ。細かい霧の粒が暴風に乗って切りつけてくる。立入禁止とは言われたけど、禁止されなくても立つことすら出来ない。それほどの圧威力だ。
霧が濃くて下ろした自分の手さえもよく見えない。顔に近くに寄せて見ると、無数の細かい傷が出来ていて、その内の数ヵ所から出血しているのが分かった。
隣に潟さんがいるはずだけど、当然ながら確認は出来ない。進入に備えて庭に腰を下ろしたところまでは見ていた。そのあと……まだそこにいるのかどうか。
不規則に襲ってくる暴風に飛ばされないよう必死だ。自分のことで精一杯で潟さんに声がかけられない。
「……ぅぐ!」
背中に質量のある塊がぶつかった。息が詰まる。建物の壁が落ちてぶつかってきたらしい。波璃が割れた音も微かに聞こえた。
地面との間に体が挟まって苦しい。しかもまずいことに、思わず声を出してしまった。そのせいで氷霧に喉をやられた。ヒリヒリとした痛みが喉に焼き付く。咳き込んだら更に傷めそうだ。
喉の痛みと咳き込みたい衝動を何とか抑え込む。生理的な涙が浮かんだ。
風の隙間で一瞬、霧が遠ざかる。涙で滲んだ視界の端で木が二、三本飛んでいった。
『ただいま頂上から上空三百メートル地点を下降中。竜宮城の損傷はおよそ一割です』
エムシリさんの声がする。めーとるというのは遠いのか近いのか?
地図は潟さんが持っていたはずだ。ということは近くに潟さんがいる。
『潟さん、大丈夫?』
潟さんと通信を試みる。返事はない。
でも再度試みる余裕はない。叩きつける風と氷に目を開いていることすら危うい。
荒れ方が凄まじい。戦闘で庭を荒らしたレベルではない。これで損傷一割だとしたら……この後、更に壊れるかと思うと恐ろしい。
ふと背中が軽くなった。
落ちてきた壁が風に飛ばされいった。すぐに霧の中へ消えて、見えなくなっていった。自分自身が飛ばされないように必死だ。
視界が悪くて氷風雪乱射みたいだと頭の片隅で思う。
ーーこの術のデメリットは自分の視界も悪くなることじゃ。
先生に言われたことを思い出す。理術を使えるようになったばかりの頃……王館の中で守られているだけで、何も知らなかった僕に一から色々なことを教えてくれた。
この霧……ひょっとして……理術?
勝手に恒山の防御柵だと思っていたけど、あながちそうとも言い切れない。
僕たちの進入を拒む……免の一派がやっているのかもしれない。挽や搀は理術を使わないからいるとしたら別の配下だ。
そうだとしたら対抗手段だ。暴風に合わせて理力が荒れている。詠唱が省略できるか微妙だけど、声は上げられない。心の中で詠唱を済ませる。
『氷風雪乱射!』
霧に氷風雪をぶつける。氷霧の暴風と氷雪の暴風の戦いだ。荒れ狂う氷の粒がぶつかってチカチカと反射する。時々、風の音に紛れてキンキンと高い音がした。
『流波射谷斬!』
続けて水の龍を放つ。
向かってくる氷の粒をまとめて飲み込んでいく。もちろん焼け石に水だ。全部飲み込めるわけはない。
でも少し攻撃の手が緩んだ。そもそも何に攻撃されているのか分からないけど、少し考える余裕が出来た。
霧や霞を消す理術は……あるにはある。ただ、霧でも靄でも大抵は避けろと言えば避けてくれるから、滅多に使わない。
それに最上級理術ではないけど強力な理術で、その分、媒介になる物体が必要だ。思い入れが強いほど、強力な理術になるという非常に曖昧な理術だ。
実施したのは先生と練習したときと、自分で復習したときだけだ。
そのときは先生の櫛と、僕の皿をそれぞれ消費した。自分の持ち物がほとんどなかったから、皿一枚でも喪失感が大きかった。
今、手元にあって使えそうなものは……
金理王さまの鎏。
先代木理王さまの桜桃。
竹伯の笄。
義姉上の釧。
どれも大切なものばかりだ。この理術を使えば二度と戻ってこない。
金理王さまの鎏は一度、取引で失っている。それから、新しいものをいただいた。また消費するのは申し訳ない。
先代木理王さまが遺してくれた桜桃も貴重なものだ。それを他属性の……当時まだ王太子になっていなかった僕に贈ってくれたことが、どれだけありがたいことか。
笄もそうだ。笄を失ったと知って、竹伯が作ってくれた物だ。多忙な竹伯が僕のために何ヵ月も掛けて作ってくれたことを考えると、粗略に扱うことは出来ない。
釧……霈の義姉上の形見で……それ以上にベルさまとお揃いだ…………。
悩んでいる間に流波射谷斬の腹が膨らんでいく。このまま霧を飲み込み続けていれば破裂して大惨事だ。
『ただいま頂上まで残り百年メートル。暴風のため着陸は不可能です。竜宮城の損傷は四割五分です』
潟さんとエムシリさんも心配だ。
これ以上、悩んでいる時間はない。腕から装飾品を抜き取る。
「義の子よ 汝を喚ぶは 雫の名 宴に招き 霞を与う……『尸解仙』!」
手を高く掲げる。握りしめた固い感触が消えていった。
泣きたくなるのをぐっと堪える。
その僕の気持ちを読み取ってか否か。三人の人型が僕の前に現れる。子供、若い女性、白髭の老人。いずれも薄い半透明で足はない。
三人が揃うと息を合わせて霧の中へ飛び込んだ。あっという間に見えなくなって、霧が一方に引っ張られていく。
三人が霧を吸い込んでいるはずだ。尸解仙は霧や霞を食べる理術だ。あればあるだけ食べるので敵意を持って生み出された霧だとしたら、遠慮することはない。
流波射谷斬の腹が爆発した。一瞬、氷の粒が飛んできたけど、その爆発さえ、尸解仙に吸い込まれていく。
視界が少しだけ晴れてきた。
周りを見る余裕が出来て、潟さんとエムシリさんの位置を確認できた。風に煽られたのか思ったよりも離れている。
近づきたいけど今は出来ない。尸解仙が活躍しているとは言え、まだ霧は収まっていない。それに立入禁止場所だ。立ち上がるわけにはいかない。
それに周囲は酷い有り様だ。王館に匹敵するほどの城は見るも無惨だ。建物の半分以上が骨組みだけになっている。戦闘で荒れていた庭は更に荒れ、どこに何があったのか分からない。もはや修復不可能だ。
『半水球』
念のため潟さんの所と自分の場所に防御を張り、潟さんに通信を試みる。
「潟さん、大丈夫?」
『はい、何とか……』
良かった。返事かあった。半水球で覆ったことで潟さんも顔をあげる余裕が出たようだ。
ただ、遠目でも分かる。潟さんは顔の半分をずっと手で押さえている。
「顔、どうかしたの?」
『……申し訳ありません。片目をヤられました』
潟さんは目が鬼門らしい。前の経験で考えると潟さんの目を治すには塩が必要だ。それとも視力とは関係ないのだろうか。
『頂上に着陸可能です。竜宮城の損傷は六割五分です』
潟さんとの通信を通してエムシリさんの声が聞こえる。
役目を終えた尸解仙がスッと消えていく。
霧が晴れた。




