28話 罰と別れ
「もう一点気になるんだけど」
もう一度、雫の位置を確認する。応接間から動いていない。ずいぶん長居をしているようだ。茶菓子の吟味でもしているのだろうか。
「火精か? 水精か?」
「水精の方。これを」
空中から小指に乗るくらいの小さい水球を取り出す。正確には水球ではないが、この際それは置いておこう。親指と人差し指で摘まんで淡に渡す。
「これがどうした?」
一見するとガラス玉のようだ。綺麗といえば綺麗な玉を淡は指先で転がしている。
「『拡大氷鏡』」
淡に氷の拡大鏡を渡す。淡は首をかしげながらも受け取り、私に促されるまま水球を映し出した。
その直後、水球を宙に放り投げた。更にズザザッと退いて安楽椅子の上に足まであげている。それと同時に拡大鏡は握りつぶされたらしい。ジュッという蒸発音がした。
「そうやって火の理術を使うから、『淡』の仮名が剥がれかかってるじゃないか」
宙を泳ぐ水球を目で追いながら、人差し指で引き寄せる。幸いなことに水球は無傷だった。
「うるせぇ! んなことどーでもいい! 何つーもん見せんだよ! 寄生性原虫じゃねぇか!」
淡が眉をひそめて、気持ち悪そうな顔をしている。
それは仕方ない。寄生性原虫は精霊を喰う。
本来は湿地に存在する生き物だ。その多くは川に生息する。川や湿地にいる分には問題ない。しかし川から出た途端、精霊を襲い、喰い始める。
更に質の悪いことに、最初は精霊自身が喰われていることに気づかない。そして気づいたときにはもう手遅れだ。精霊は消滅するしかなく、本体は脱け殻となってしまう。
「……これが雫の頭に付いていた」
「はっ?」
淡にしては間の抜けた顔をしている。言われたことが分からないというよりも、理解したくない、という顔だ。
「帰ってきてすぐに違和感があった。そうしたらこれだ」
雫が執務室の前で跪いたとき、微かな異物の気配を感じた。さりげなく雫の頭部に触れたら、予想外の生き物を回収する羽目になった。
「これが付いてたって? 流没闘争の時に使われて……被害が……」
水球の中には薄紫色をした不定形の生物が動いている。ゆったりした動きで暴れる様子はない。
「いくら本体が無事でも、これに喰われれば精霊としては終わりだ」
「雫は?」
淡がハッとしたように私に尋ねた。雫に付いていたという事実を受け入れざるを得なかったようだ。
「心配ない。特に被害はなかった。これは精霊が持つ理力に反応して補食活動をするからね。おそらく雫の理力が少な過ぎて反応しなかったんだろう」
「……戦闘のとき、他の精に反応しなかったのか? ていうか俺だって側にいたのに反応しなかったぞ」
淡はホッとしつつも怪訝な顔をしている。安楽椅子にあげていた足をやっと床に下ろした。
「雫の頭の上ではすでに活動していなかった。理力がほぼない水精の気配を川底か何かと勘違いして、落ち着いていたんだろう」
「やべぇ。……こんなの付けられてて気づかないのかよ」
全くだ。淡も先程言っていたが、もう少し警戒してほしい。そう思って火精に襲われる可能性も話しておいたのに、意味がない。
「早く処分しろよ。それ」
淡が私の持つ原虫をあごで指し示した。淡から見れば百害あって一利なしといったところだろう。
だが、水精の王としてはそうもいかない。
「いや、これ自体は悪くない。川や沼にいれば水を健やかに保つ。でも、水から上がるとパニックになって精霊を襲い出すんだ。だからしかるべき場所に戻さないと」
むしろ川にいて欲しい生き物だが、自分で積極的に動くことはない。雫に付いていたなら、誰かに直接付けられたと考えるのが妥当だ。
雫の気配が徐々に近づいてきたのが分かった。心なしか少し楽しげな感じがする。
「雫の警戒心を養う必要があるね」
「あ、思い出した。先々代にも贈り物をしたいって言ってたぞ。言われたわけじゃねぇけど、また市に行きたいとか言い出すんじゃないか?」
呑気なことだ。
その性格は嫌いではない。だが、今回は……今後はそれも改める必要がある。
「……二度も襲われたとは思えないね」
「危機管理の教育は理王がしてもいいんじゃねぇ?」
淡が安楽椅子の背に頭を預けている。原虫のことですっかり疲れてしまったようだ。
「そうだね。少し反省させないと。……一芝居うとうか」
扉に視線を向ける。雫の気配がすぐそこまで近づいてきた。
◇◆◇◆
お菓子で一杯にした容器を両手で持って執務室の前まで来ると、中から怒声が聞こえてきた。
「どういうことだ!」
淼さまの声だ。聞いたこともないような大きな声だ。入るのを躊躇ってしまう。
「どういうことだと聞いているんだ!」
「……申し訳ありません」
淡さんの声もする。
何かを謝っているみたいだ。
「私は出発前、淡に何と言った?」
「……『雫のことを頼む』と仰いました」
まずい。
「そうだ。火精から狙われる可能性も考えて淡を護衛につけた。にも関わらず、火精に襲われたとき側にいなかっただって?」
「……仰る通りです」
淡さんが怒られている。市で火精に襲われたことでやっぱりお叱りがあるんだ。
「しかも今の話だと、水精にも襲われたそうだな。そのときも側にいなかったのか?」
「はい」
淡さん、僕が兄弟に襲われたことも話してくれたんだ。僕はその話を淼さまにしていない。身内のことなので、余計な心配をさせたくなかったから。
「何のために淡をつけたと思ってるんだ!」
どうしよう。淡さんは悪くない。悪いのは僕だ。
淼さまの声はいつもより低くて、大きくて、冷たい。
「その外套の状態から想像するに、相当な攻撃を受けたはずだ。お前が任務を怠ったせいで!」
「弁明のしようもありません」
僕は菓子入れを片手で持ち直し、ノックをしようかしまいか悩んでいる。
「謝罪も弁明も聞きたくない。私の命令を無視したのだから」
「っ失礼します!」
いつもなら絶対しないけど、居ても立ってもいられずノックとほぼ同時に扉を開ける。
「あぁ、雫。おかえり」
淼さまの声は低いままで、僕を見ようともしない。淡さんの姿は安楽椅子にはなかった。淼さまの隣で膝をついている。
「あ、あの」
「雫、水精の件は淡から聞いた。さっき話してくれた火精の件も」
珍しく淼さまが、僕の言葉を最後まで聞いてくれない。僕が怒られているわけではないけど、淼さまが少しだけ怖い。
「あ、の、僕が」
「我が儘を言ったというのはさっきも聞いた。でも、それを止めるべき淡が、止められなかったというのは大問題だ」
「いかなる処分も受ける所存でございます」
淼さまと僕は同時に淡さんを見た。淡さんは跪いたまま顔もあげない。
「なるほど?」
「っ……淼さま! 申し訳ありません。悪いのは僕なんです!」
淡さんの隣に一緒に膝を付く。菓子入れは投げ出してしまった。音を立てて床にお菓子が散らばる。でもそれを気にしている余裕はなかった。
「……確かに雫も悪い。ただ、雫は『無事に帰る』という命令を守った。だから罰することは出来ない。それが理だからね」
「そんな……」
淼さまは理王だ。いくら優しくても穏やかでも理を犯すことはしない。
「伯位・淡」
「はっ」
淡さんが頭を更に低くした。
背中が寒くなった。
「雫の受けた怪我の治療、および火精からの救出に免じ、位は残す。その上で淡の名を没収する。私が良いというまで謹慎せよ」
ゴオッという音と共に隣にいた淡さんが水の柱に飲み込まれた。淡さんの顔が一瞬、苦痛に歪む。
「ぅ……」
「あっ……あ、あっ」
名を呼ぼうとした。でも、呼びたいのに……呼びたいのに知っているはずの名前が分からない。
「雫も……少し反省するように」
水の柱がおさまるとそこには誰もいなかった。淼さまの声はいつもの高さに戻っていて、少しだけ切なさを孕んでいた。




