291話 初めての敗北
潟さんが舌打ちした。頭を狙っていたから、搀が僅かに避けたようだ。搀の甲高い悲鳴が上がる。
右腕と一緒に黒い箱も一緒に落とされた。箱は搀の手から離れると、小爆発を起こして燃えてしまった。
衝撃に弱いなんて持ち運びには不便だけど、僕たちには好都合だ。箱が壊れたせいで過重力から解放された。
肩から荷物が下ろされたように、体が急に軽くなった。元に戻っただけだろうけど、反動でとても軽く感じる。今なら雲なしでも飛べそうな感じだ。
搀は切られた腕の付け根辺りを抑えて蹲っている。それを潟さんが強引に起こし、残った腕を後ろで捻った。
「潟さん」
潟さんは片手で搀を抑え、片手で喉元に剣を当てた。搀が少しでも動けば切れるだろう。
搀は額に脂汗をかき、目は血走っている。その目でキッと僕を睨み付けた。
「あたしは死を恐れない。免さまがいれば何度だって復活できるんだから!」
さっきも聞いた言葉だ。会ってすぐにそう言っていた。
だとしたらここで退治しても無駄だ。捕縛して色々と尋問した方が良いか……。
「ではこっちも斬りますか?」
潟さんが喉から左腕に剣を移した。僕も容赦するつもりはないけど、潟さんには敵わない。
搀が息を飲んだ。でも恐怖はない。自分に訪れる痛みや衝撃に対して覚悟を決めたような顔だ。
ここで痛め付けるのは時間の無駄だ。搀を連れて一足先に王館へ戻ってもらおう。
「潟さ……」
「そこまでだ」
挽が近くまで来ていた。気配を感じ取れないのが悔しい。しかも剣を伸ばせば届きそうな所に立っている。
菳を片手で引きずっていた。
「菳!」
菳には挽との戦いを任せてしまった。ぐったりとしていて意識がない。片手を挽に掴まれている。引きずられた跡が顔に付いていた。
「こいつ、余計な時間を取らせやがった挙げ句、寝やがった。舐められたもんだな。……おい、こいつを助けたければ搀を放せ」
そう言う挽も顔に引っ掻き傷がたくさん付いていた。菳の銅剣にやられたに違いない。
「質を取るなんて卑怯だ」
凄んでみるけど状況は変わらない。菳は挽の攻撃を受けて銅を食べていたから眠気が襲ったのだろう。
「何とでも言えば良い。俺たちは勝つことが全てだ。手段は選ばない」
菳をブラブラと揺する。首がグラグラしていて完全に意識を失っている。本当に寝ているだけなのか疑いたくなってしまう。
「……分かった。今回は見逃す。菳を放せ」
「先に搀から剣を下ろせ」
挽はそう言いながら菳の額に黒い筒を当てた。何度も追い回された筒も菳との戦いで傷が付いたり、凹んだりしている。挽が削ぎ落としていた苔もまだこびりついていた。
菳も必死に戦っていたことがよく分かった。
「潟さん、剣を下ろして」
「雫さま!」
それでも潟さんはまだ搀から剣を離さない。
気持ちは分かる。僕たちも必死に戦ってやっと追い詰めたところだ。みすみす逃したくはない。
「ハハッ、水太子さまはお優しいこったな。なら礼代わりに雨伯がどうなったか教えてやろうか?」
挽の表情は変わらないのに、不思議とニヤリとした笑みが見えた。微かに免の面影を感じた。
「……養父上に何をした?」
勿体ぶった間の取り方にイラッとさせられる。
「竜宮城の高さから落ちたら助かると思うか?」
「……雨伯は空くらい飛べる。問題ない」
蛟の姿になれば宙を泳ぐことが出来たはずだ。例え、挽と搀にここから落とされたとしても、それくらいでヤられるような雨伯ではない。
霓さんは人型でもふわふわ浮いていた。羽衣があれば無事だろう。
雷伯に至っては……落ちることに関して得意なはずだ。寧ろ落ちることが仕事だ。問題ない。
他の義兄姉は分からないけど、皆そんなに弱くない。
「普通ならな。雨が何故上から下に落ちると思う? 落ちる力が強ければどうなると思う? 雨は昇ってこられるか?」
質問とはいえない質問を次から次にぶつけてくる。
先程まで受けていた過重力。アレを飛行中にかけられたら、どうなるか。
地面に叩きつけられるか、落下中に潰されるか。
まさか……養父上。
「落ちる前に下っ端精霊を全員雨粒に変えやがった挙げ句、竜宮城を王館から遠ざけたのは鬱陶しかったがな」
やはり養父上はわざと王館から離れたのか。
恐らく僕やベルさまたちに危害が及ばないように……。
「さっさと放しなよ!」
搀が残った腕で潟さんの剣を払った。潟さんは不満そうにしてはいる。けど、搀を止めることはしない。いや、出来ない。菳が捕まっている以上、身動きがとれない。
搀は腕を抑えながら挽の元へ戻っていく。悔しい思いでそれを見送った。
「フンッ。雨伯が抵抗しなければ下っ端の連中を免さまに献上できたのに……」
搀が挽の左側に辿り着くと、挽は菳の腕を引っ張った。菳を受け取るために、挽との距離を詰めて手を伸ばした。
しかし挽は僕の手を避けて、菳を肩に担いでしまった。
「心配するな。手ぶらで帰る気はない」
「なっ、騙したのか! 菳を放せ!」
「知るか」
腰の剣を抜こうとして……手応えがなかった。さっき搀に投げつけたままだ。少し離れたところに刺さっている。
潟さんが僕に代わって大剣を構えている。今にも踏み込みそうだ。
「『氷風雪乱……』」
「何かしてみろ。こいつがどうなっても良いのか」
「キャハハハハハ、ヤッちゃう? 目の前でヤっちゃう?」
搀が面白そうに残った腕で菳を小突いた。切ったはずの腕はもう痛まないらしい。回復はしていなくてもダメージは小さそうだ。
グラッと目眩のような違和感に襲われる。一瞬で収まったけど、挽と搀の足がズブズブと沈んでいた。灰色の空間が見え隠れしている。
菳が連れ去られてしまう!
手を飛ばしても、駆け寄っても間に合わない。三人はものすごい速さで沈んでいく。
「あばよ、水太子サマ」
「アハハハハハ! 次はお前の腕、切り落としてやるからな」
「ま、待て!」
自分が叫ぶ声が虚しい。灰色の空間に手を伸ばした。
けど、僕の手は庭の土を握っているだけだった。初めからそこには誰もいなかったかのようだ。頭が現実を理解することを拒んでいる。
「雫さま……」
「菳が……潟さん、菳が」
潟さんが僕の肩に手を置いた。僕と同じように土に膝を着いた。
「悔しいですが、負けです」
潟さんの言葉が刺さる。幼い子供に言い聞かせるように、僕の顔を下から覗きこんできた。
「負けてないよ」
「いいえ、今回は負けです。得るものはなく、味方を……失いました」
認めたくない。でも『負けた』という言葉はストンと胸に落ちてきた。吐き気がするほど理解できてしまった。
手を開くと土が一握り分、固まっていた。意味もなく、もう一度それを握りしめる。
土を握りしめたまま地面をがむしゃらに叩いた。叩いて叩いて叩いて……。指の端が切れて潟さんに止められるまで地面を殴った。
こんなに胸くそ悪い敗北を味わうのは初めてだった。




