283話 初代理王の刻
『会話ならあるね。僕が理王だったときくらいだと思うけど』
「見せてください。少しでも情報が欲しいんです」
僕はあまりにも人間について知らなさすぎる。
分かっているのは、水の星に住んでいてかつては精霊と心を通わせられた唯一の生き物だったということ。それと僕たちが人型の姿になるのは人間に由来するということ。
水の星が崩壊し始めたとき、精霊は新天地に移り住んだ。その時、人間は存在できなくなると思われていたそうだ。
でも実際はそうではなかった。
『あいつらは自分達が世界の中心だと思っている! 自分達の欲求のためなら……他の魂のことなど何とも思わないのでござる!』
いつかの暮さんの言葉が蘇る。
人間に手を加えられてしまった精霊はこの世界に移ってくることが出来なかったそうだ。暮さんによると、水の星で自分を保っている精霊は一部の原生林くらいだという。
人間について最新の情報を持っているのは暮さんだ。でも暮さんは免との繋がりを断つため、記憶制限を受けている。だから暮さんに情報を求めることはできない。
人間のことを知っている父上を頼るのが一番の方法だ。
『……分かった。当代も来るの?』
「私は行きません。他の理王から接触があるかもしれないので。父子水入らずでどうぞ」
ベルさまはすでに仕事に入っているようだ。
父上が過去を見せてくれることについて疑問に思わないところを見ると、ベルさまも過去を見せてもらってことがあるのかもしれない。
「先に言っておきますが、無意味なものを雫に見せないでください」
『無意味なものって何? 当代の太子時代ならもうとっくに見せちゃったよ?』
「は?」
ベルさまの瞳が動いた。動揺と少しの怒りが混じっている。
「ち、父上。早く見せてください」
『分かった分かった』
執務室の景色がグニャリと歪む。吐き気が襲ってくるのは前と一緒だ。でも少し経てば落ち着くのも分かっている。短い間の辛抱だ。
「…………ど……た……」
掠れた声が聞こえてきた。
声自体が掠れているのではない。焦点が合うまで時間がかかるのと一緒で、まだ鮮明に聞き取れていないだけだろう。
周りを確認してみる。どうやら執務室らしい。でも僕の知る執務室ではない。
机の配置が異なるのは当たり前だとしても、部屋の構造そのものが違う。壁に埋め込められた柱の出っ張りは、僕とベルさまが使っている執務室にはない。
「……かった。ご苦労さま」
声が鮮明に聞こえるようになった。
それとほぼ同時に執務室が精霊の姿で溢れた。四、五十人くらいはいるだろうか。狭い部屋ではないけど、流石にお互いがすれ違うのも一苦労だ。
常に出入りがあって、入り口が忙しなく開いたり閉まったりを繰り返している。開閉係みたいな精霊がいるようだけど、休む暇がなくて可哀想だ。
『すごいでしょ、この精霊の数』
「あれ、父上。いたんですか?」
前は僕一人だったからてっきり今回も僕だけだと思った。父上は相変わらず茶器に収まったままだ。
さっきまで僕が茶器を持っていたはずなのに、いつの間にか宙を漂っている。他の精霊からは感知されないとはいえ自由すぎる。
『ひどいな。案内してあげようと思ったのに』
「す、すみません。でも案内よりも人間の……」
僕の言葉を無視して父上はごった返す精霊を避けもせずにすり抜けていく。僕のことも何人かすり抜けていった。
『左肩に羽が付いているのが四人いるでしょ。あれが伝令。あ、一人出ていったね。それから侍従が五人でその内のひとりは侍従長。雫もやってたから服で分かるよね』
父上は案内というよりも精霊の紹介を始めた。父上が部屋の奥へ奥へと進んでいくので、僕も仕方なく付いていく。
『それからあっちの二人が近衛で今は待機中だよ。それから、あそこの机の隣にいるのか書記官二人。うーん、懐かしいなぁ。あ、毛色が違うと思ったら木訥もいるじゃないか。お使いかな』
父上は大はしゃぎだ。王館で起こったことを全て知っているなら、今更こんなにはしゃぐこともないだろうに……。
「父上……」
「あぁ、ごめんごめん。見せることはあっても一緒に見に来ることってないからさー。こっち来て」
父上に付いて、部屋の一番奥へと進む。
寝台くらいありそうな大きな机に精霊が五人ほど群がっている。その中心ともいうべき椅子に理王である父上が掛けていた。
『あれ、僕だよ』
言われなくてもすぐに分かった。地下で一度、等身大の父上に会っているし、何より美蛇によく似ている。いや、美蛇『が』よく似ているというべきか。
ただ、地下で見た顔は青白かったので、それよりは健康そうだ。しかも今よりも引き締まった顔をしている。流石に在位中と引退後では印象が違うようだ。
「よし、それは承認する。至急、現地に承認書を届けてきて」
「はっ!」
精霊がひとり父上から離れた。足早に扉の方に向かっていく。残念ながら行き先は分からなかった。
「あぁ、それと。明日北方に出掛けるから水先人に準備をさせておいて」
「は、ただちに」
皆、ピリピリしている。
というか……今の発言は気になる。
「父上、外出できるんじゃないですか!」
理王は王館から出られないとあれだけ言っていたのに、自分も出掛けようとしている。嘘だったのか。
『ち、違うよ! 水先人だよ!』
「だから何ですか?」
『だって……あぁ、そうか。当代は水先人の使い方を間違えているから知らないのか』
父上は僕の前に茶器で止めた。段々操縦がうまくなっている。
『あのね、雫、水先人は理王の船を先導するのが仕事でね。水理王は王館の外へ行ったとしても、船からは出られないんだよ』
「……そうなんですか?」
何か疑わしくなってきた。
『船も王館の一部なんだよ?』
何だか、納得がいかないような気もするけど、でもここで父上を問い詰めても仕方ない。
小さな父上がうろうろしている間に、執務席の父上はテキパキと話を進めている。
「太子の件はどうなった?」
「御上のご指示通り、海水系及び現象系に候補を絞っております」
動きが早くて手が四本あるように見える。書類を書いたり、渡したり、捲ったり、判を推したり……忙しい。素早い動きは戦闘で慣れたと思っていたけど、目がついていかない。
「そっか、分かった。なるべく人間の影響を受けていない精霊が良いね」
「かしこまりました。更に候補を絞ります」
ようやく人間の話題が出てきた。
もっと掘り下げてほしい。そう思ったところで視界が歪んだ。まさか今の一言だけ?
「今ので終わりですか?」
『次があるから見てて』
今度はまた別の部屋になった。執務室よりは狭い部屋だ。けど、置かれた調度品は月明かりでも立派なものだと分かる。
部屋には二人だけだ。いるのは父上と……服の感じからすると侍従長か。
「本日もおつかれさまでした、御上」
「あぁ、君も休んで良いよ」
一日の業務を終えたようだ。ということはここは父上の私室だろう。
『あ、懐かしいな。あの蛙のペン立て、気に入ってたんだよね……おっと』
茶器の父上は机の上でぐるぐると旋回し始めた。しばらくすると机に降りて、僕に手招きをする。
「何ですか?」
『雫、茶器が限界だ。僕は先に帰る』
父上が入った茶器に薄いヒビが入っていた。ベルさまが長持ちはしないと言っていたのを思い出した。




