27話 語らい
黒い王館を目指して、早歩きだったはずなのに、いつの間にか走ってしまっていたらしい。見慣れた廊下に入って、走っていた自分に気付いた。
恥ずかしい。少し落ち着こう。
わざとゆっくり歩く。でも気持ちは早く行きたいみたいで、時々爪先で躓いた。僕が雑巾掛けをした廊下を通りすぎる頃には、また、早歩きになっていた。
藍石と水晶で装飾された黒い扉の前に立つ。何回も通った部屋だ。
ノックをする前に心を落ち着かせて深呼吸をする。右手を握りしめて、拳を軽く振りかざすと、ノックする前に扉が開いた。
スカッと右手が空を切った。その手を白い手がパシッと受け止めた。遅れて長い銀髪が視界に入る。
「……淼さま?」
心の声が音に出た。
「お帰り」
淼さまは僕の右手を解放しながら、声をかけてくれた。懐かしい微笑みが見える。
「び……」
あれ? 膝が冷たい。体が勝手に廊下に跪いていた。
「御上の命により、無事に帰館致しました」
何これ? 口が勝手に動くんだけど。
「大義」
あ、そうか。出発前に淼さまから言われた言葉を思い出す。
ーーーー無事に私の元へ帰ってくること。絶対に消えてはならない。雫への初めての命令だ。
そうか、僕は命令をちゃんと守ったんだ。帰って来た。ちゃんと帰って来た。
「お帰り、雫」
淼さまの手が僕の頭に置かれた。体全体に何かが沁み渡るような心地よさがある。
それと同時に頭がスッキリして、疲れがとれた気がする。
「ただいま、は?」
「たっ、ただいま帰りました!」
淼さまは口角を上げて満足そうだ。でもくるりと体の向きを変えたので、顔が見えなくなってしまった。部屋の中へ入っていく淼さまに、少し置いていかれたような寂しさを感じる。
「雫。お茶いれて?」
「っはい!」
淼さまは振り向かずに僕に告げる。鞄を適当に放り出し、体が覚えている動作でお茶の用意を始めた。
◇◆◇◆
「あ、淡さん」
淡さんが淼さまの執務室にやって来たのは、お茶のお代わりを済ませてからだった。
ちなみに淡さんを置いてきたことに気づいたのは、ついさっきだ。
「……水理皇上。ただいま戻りました」
「あぁ、ご苦労」
淼さまは淡さんをチラッと見ただけで、茶器に視線を戻してしまった。淡さんは多めに息を吸って、安楽椅子にかけた淼さまの真横に立った。
「雫。報告はしたのか? ……いや、何でもない。俺がする。水理皇上」
僕の返事を待たずに、淡さんが淼さまに向き直る。僅かな沈黙のあと、淼さまは嫌そうに淡さんを見上げた。
「今?」
「今です」
淼さまは視線を下ろして茶器に口をつける。ゆっくりとした動作で一口含むとまたすぐに声をかけた。
「急ぎ?」
「火急です」
向かいの淼さまからチッという音が聞こえた。お茶が熱かったのだろうか。
「まぁ、掛けて」
「失礼します」
淡さんが僕の隣に来たので、少し避けてスペースを作った。でもすぐに思い直して、淡さんの茶器を追加するために一旦席を外すことにした。
「それで?」
「まぁ……とり急ぎ……」
淼さまと淡さんが小声で話している。カチャカチャと音のなる茶器を静かにさせないとうるさいだろう。
何を話しているかは分からない。離れているから、ここまではほとんど聞こえてこない。蒸らし終わったお茶を持って淡さんの前に置く。
「はい、淡さん」
「あ? あぁ、悪い」
淡さんは僕に軽く手を上げる。それをきっかけに二人とも黙ってしまった。
「雫。応接間から茶菓子を持っておいで」
「はい、分かりました」
さっきまであったお菓子は淼さまと二人で食べてしまった。淡さんの分がないのは可哀想だ。
立ち上がってから、ボロボロの外套を着たままだったことに気づく。後で謝らないといけない。
脱いで邪魔にならないよう壁際の鞄の上に置いた。少し身動きが取りやすくなる。静かに執務室を出て、足早に応接間に向かった。
◇◆◇◆
パタンッと静かな音を立てて雫が部屋から出ていった。小声で話す必要はなくなった。遠慮ない音量で淡に話しかける。
「それで?」
「そういうわけで……水精の五兄弟が鍾乳洞で固まってる。あれを回収するか、始末するかした方がいい」
鍾乳洞か。淡は野宿の場所としては良いところを選んだ。
「鍾乳洞は温度変化が少ない。放っておいても溶けはしないだろう」
「いや、早く行けよ」
一呼吸置いた。この先の選択を間違ってはいけない。よく考えたい。
「雫の怪我も治ったのなら今回はそれでいい」
「放置でいいのかよ。雫の手前、処分とは言い辛いだろうけどよ」
淡は少し怒っているようだ。雫を傷つけられて、お咎めなしとでも思っているなら大きな誤解だ。
「身内とは言い難いから、それは別に気にしない。雫の傑作品を是非とも見てみたい気もするが、放置した方が使い道がある」
「は?」
淡が茶器を片手に動きを止めてしまった。雫を襲った者たちを放置するという私の考えが納得いかないのだろう。
「……まぁいい。それはそちらで何とかしてくれ」
淡がそう言いながらやっと茶器を離した。その間に気を巡らせて、雫の居場所を確認する。……まだ、応接間に着いたばかりのようだ。もう少し時間はある。
「雫からこれを渡されたよ」
コトンと小さな音を立てて、貝のペンを机に置く。それが話題を変える合図になった。
「雫から水精に襲われたという話は聞いていない。聞いたのは……市で火精に襲われたことだけだ」
「……」
雫の報告はあっさりしたものだった。鍾乳洞で兄姉と戦闘になったという話は聞いていない。
身内のことだから、私に言いたくなかったのかもしれない。
「市に寄ること自体に問題はないけどね。雫が我が儘を言って寄ったということだったが、間違いないか?」
「……あぁ」
淡の勢いが弱くなった。負い目があるのだろう。
「淡さんを怒らないでほしい、と言われた。止められたのに言うことを聞かなかったのは自分だからと」
「…………」
返事がなくなった。雫に先回りされているとは思わなかったのだろう。私に叱責されることを覚悟していたはずだ。
「昔ならいざ知らず、今時水精の市に好き好んで行く火精は珍しいだろうね」
「……悪かった」
淡は小さな声で謝罪の言葉を述べた。いつも自信で溢れているこの男にしては珍しい音量だ。
「弱い水精を狙った火精が集まってきそうだよね? ……火理王に連れていけと言われた?」
わざと煽るようなことを言ってみた。淡の顔が一気に赤くなる。
「っちがう! 火理王もそこまで非道じゃない」
淡がバンッとローテーブルを叩く。否定の意思が強く出ていた。
「雫を強く止めていればこんなことにはならなかった」
「っ……」
淡が一番痛いであろうところを突いてみた。案の定、淡は言葉に詰まってしまう。可哀想だからこの辺にしておこう。
「……って顔してる」
「っおい、茶化すな」
「茶化してはいない。これでも怒っている」
雫に対しても、淡に対しても。
雫にはあれだけ気を付けるよう言ったのに、警戒が弱い。そして淡は雫に弱い。
「でも私への贈り物を探しに行ったと聞いたら叱れないじゃないか」
雫に弱いのは私も同じだった。
机の上に置いたペンを指で摘まんでクルクル回す。雫の鞄に掛かっている外套が目に入った。
「火鼠の衣……肩のところが白くなっている。大きさからして、火球か火石で攻撃を受けたんだろう。それとまだ確認していないが、七竈の笄も実がなってるんじゃないか?」
「俺も詳しく聞いていない。あとで本人に聞いてくれ」
淡の性格からして聞いていないわけがない。『聞いていない』のではなく、『聞けなかった』のだろう。
この男は外見や言動に反して意外と真面目で思いやりもある。雫のことに責任を感じて、自分を責めているに違いない。
「火精に狙われるという話は雫にもしてあった。だからもちろん雫にも非がある。貴方だけのせいじゃない」
「兄弟から襲われた直後なのに警戒心がなさすぎる。甘やかしすぎたんじゃねぇの?」
淡が遠回りで私を責めてきた。
「……お互いね」
「……だな」
甘い自覚はあるのか、淡も否定はしない。淡のことを言えた義理ではない。私もいつからこんなに甘くなったのだろう。




