273話 菳の眠気
木偶坊の事件以来、僕は木精から好印象を持たれていた。ただ、その後が問題だ。
「無患子の件で、僕のことを恨んでいないんですか?」
ベルさまからの視線が痛い。余計なことを言うなと目が語っている。菳は聞いているのかいないのか……ただ眠そうに立っている。
「はて……何のことでございますか?」
あの騒動はかなり大きかったはずだ。侍従長クラスなら知らないはずがない。
無患子に木理王さまや桀さんを繋いでしまったのは僕だ。
「無患子は王館前で笹と喧嘩をして騒がせた罪がありましたが、淼さまには何の関係もないことでございます」
侍従長は『何の関係もない』を強調した。まるで宣誓をしているようだ。ここまで強調されると、わざとやっているとしか思えない。
僕が口を開こうとすると、侍従長が続けて声を上げた。何かに気づいたような大げさな動きをつけて、僕の発言を遮る。
「なるほど、淼さまは笹の身を案じていらっしゃるのですね。笹が昔からお世話になっていると、木精の間では有名な話です」
お世話になっているのは僕の方だ。それと話を微妙に逸らされている。
「双方ともに相応の罰を受けております。笹は低位ですが、一時的な他王館への出仕で良しとされました」
他王館への出仕という名目だけど、土の王館への応援だ。免の侵入した場に来てくれて、助かった。
「……無患子の方はどうなったんですか?」
菳が侍従長に寄りかかって本格的に寝始めた。立ったままで器用だ。
「無患子は騒動の首謀者ということで、夫婦ともに降格の上、名の没収となりました。蜻蛉として一生を終えるでしょう」
高位になりたくて、王館に乗り込もうとしたはずだ。結果的に元の地位である叔位も失うとは思わなかっただろう。
尤も名を失った今、何かを熟考したり、思案したりすることは出来ないだろう。
「そうですか。教えてくれてありがとう」
「んごごぴ」
愉快なイビキが聞こえてきた。菳と話をするはずが、すっかり放置してしまった。
「これ、起きないか!」
侍従長が自分の肩を揺すって菳に振動を与える。
「良いですよ、そのままで。起こすのは可哀想です」
「も、申し訳ございません」
ベルさまが腕をひじ掛けに添えて、大袈裟に袖を払った。その動きで侍従長の視線を引いた。
「侍従長。この子はずっと眠そうだけど、戦闘力は確かか? しつこいが、水太子を任せるに値するか?」
ベルさまが多少の威圧を込めている。木精相手に水精の生半可な威圧など通用しない。水精の攻撃でさえ、吸収されてしまう。
でも侍従長が息を飲んだ音がはっきり聞こえた。水を吸収する木精といえど、過ぎれば溺れて腐ってしまう。ベルさまの強すぎる理力に身の危険を感じたのだろう。
「戦闘力は高いです。しかし食後は眠くなるようでして……。空腹だというので、ここに来る前に食事を与えてしまいました。まさかこのようなことになるとは……」
食事も与えずに仕事をさせることの方が問題だ。食後に眠くなるなら、食事の時間を調整すれば済むことだ。
ただ、緊急時には困るだろう。突然襲われた時には、反撃したり避難したり、対応できないとまずい。
「銅は本来、土や草にとっては毒だ。解毒に体力を使っているのだろうな。そういうことなら雫、彼に水を恵んであげるといい」
「え。あ、はい」
僕の水で浄化するつもりらしい。泉の水に回復効果はあるみたいだけど、浄化作用まであるかどうか……。
水球をひとつ氷飲器に注ぎ、侍従長に手渡す。侍従長がごくりと喉を鳴らした。ついでに口元を軽く手で押さえる。
もしかしたら涎が出ていたのかもしれない。
咳払いをひとつして、侍従長は菳の口に水を流し込んだ。菳が口を開けて寝ているのを幸いに、ゆっくり少しずつだ。
加減を間違えると飲み違えてしまいそうだ。けど、菳は寝ながら器用に喉を上下させている。
「泉でダメならこっちを試してみよう」
ベルさまが悪戯っぽく水晶刀をちらつかせた。水晶刀なら間違いない。愛下温泉を浄化させたことがある。
「あぁ、ようやく起きたか」
菳が目を覚ました。侍従長がほっとした顔をしている。
菳はこの部屋に来てから一番目が開いている。顔色は明らかに良くなって、青かった頬に赤みが出ている。心なしか髪まで艶々している。
「菳、気分はどう?」
「んー………………お腹空いた」
ベルさまが吹き出した。今まで静かにしていた潟さんまでクスクス笑っている。
欲求に忠実だ。正直だということが良く分かった。
◇◆◇◆
「なかなか愉快な子だったね。何だか昔の雫に近いものを感じるよ」
「雫さまも、昔はあのような……なるほど」
潟さんがおかしな方向に感心し始めた。こうなると、僕が止めるまで妄想を繰り広げている。
使用済みの資料の束を片付けるように頼んだのに、抱えたまま楽しい妄想をしていそうだ。
「潟さん。そろそろ泥と汢の訓練の時間でしょ。早く行ってあげて」
二人とも佐の候補になった。
でも戦闘に不向きなので潟さんの猛特訓を受けている。
「あぁ、そうですね。折角、雫さまから授かったお役目を蔑ろには出来ません。こちらを片付けたら行って参ります」
「頼むね」
潟さんにとっても最適な仕事だと思う。潟さんは普段から僕に付きっきりで、力を持て余している。
泥と汢は戦闘に慣れていないから、くれぐれも手加減と、順序を守った指導をお願いした。無茶をしていないか心配だけど、今のところ二人からクレームは出ていない。
「雫さま大好きのあの二人が了承するとは意外だったね」
「話をするまでが大変でしたけどね」
最初に佐の話をしたとき、二人ともクビにされると勘違いして泣きに泣いた。
そうではないと言って二人を宥め、ようやく会話が成立するようになってから佐の話をしてみた。
僕のところで働くことを気に入ってくれているようで何よりだ。そう前置きした上で、混合精の地位向上と水精の候補者不足について語った。
二人はそれを聞いてしばらく黙っていた。けれど、結局他の王館に推薦されることを了承してくれた。
昔は虐げられていたから誰かに必要とされているのは嬉しいと言った。その気持ちは分かる。僕も同じ立場だったから。
今ではもう懐かしくさえ思うけど、僕も兄姉から邪魔物扱いされていた。それをベルさまが救ってくれて、こうしてここにいる。
だから今でもベルさまには感謝しているし、ベルさまの役に立てるならどんな地位でも構わない。そう思って太子にまでなってしまった。
二人は元々土の王館にいたこともあるから、他の王館でもうまく立ち回れるとは思う。でも何か言われたら、水太子の元侍従を強調しても良い。何かあったら僕が二人を守るし、帰ってきても良い。そう言って二人を励ました。
「とは言え、まだ候補になっただけで選ばれるかどうかは分かりませんけどね」
「新しい侍従も探さないとね」
「私がおりますのでご心配なく」
潟さんが本棚の戸を閉めながら、間髪いれずに答えた。佐が決まったら潟さんは侍従武官から外されて、ただの侍従になる予定だ。
僕と一緒に行動できるのは王館内に絞られるだろう。そう思うとちょっと寂しくもある。
「今まで以上に雫さまに体も心も捧げる所存です」
「頼もしいけど、心は添さんにあげて」
また嫉妬されたら堪らない。すると、潟さんは両手で自分の体を抱き込むような仕草をした。
「そんな、雫さま。私の体が目当てだったのですか。早く言ってくだされば寝所を整えましたのに……っ」
ベルさまから放たれた氷柱が潟さんの服を切り裂いた。袖が大きく抉れている。
前にも経験したような気がする。潟さんが避けきれていないのは、ベルさまが前回より手加減しなかったからに違いない。
ベルさまの機嫌が完全に悪くなる前に、潟さんを部屋から追い出した。




