270話 会議の後
ベルさまが帰ってきた。早く帰ってくれば良いなとは思ったけど、想定外だ。
「御上、お早いお帰りですね」
僕の代わりに潟さんが声を掛けた。ベルさまはちょっと不機嫌そうだ。
「そんなに早かったか?」
言い方にトゲがある。ちょっとどころではなく機嫌が悪い。
潟さんも悪気があったわけではない。でも疲労のせいか、下手に話しかけたら不興を買う。ベルさまに聞こえるように潟さんに命じて、僕の部屋に下がらせた。
ベルさまが自分の席に着くのを横目に、僕は声を掛けずに席を立った。
部屋の奥へ入って棚から茶器を二つ取り出した。最近、自分ではあまりやらなくなってしまったけど、お茶の淹れ方くらいは覚えている。久しぶりとはいえ、体に馴染んだ作業だ。
盆に茶器と茶菓子を並べて、ベルさまのところへ戻る。ベルさまは少し目を驚いた顔で僕を見上げた。
「改めて、お帰りなさいませ」
昔はこうやってベルさまの帰りを待っていた。最近は逆だ。視察から帰ってきた僕を、ベルさまが待っていてくれる。
久しぶりに昔に戻った気がする。
「お茶か……。久しぶりだね」
「どうぞ。お疲れでしょう」
受皿、茶器をベルさまの前……利き手寄りに並べる。後から茶菓子を置いた。
ベルさまは茶器に手を当てた。すぐに飲もうとはせず、お茶の香りと温度を楽しんでいるようだ。
「良い香りだね。私の好みを覚えていたとは流石だ」
「ベルさまの好きなお茶を忘れるわけがないです」
勿論、お菓子も。料理も、洗濯した後の襟の立て方も。
書類の並べ方も、インクの壺を置く場所も。
全部、覚えている。そう言ったらベルさまにストーカーだと笑われてしまった。
ひとしきり笑った後、ベルさまはようやく茶器を口につけた。火傷の心配は……水理王には杞憂だ。
袖が捲れて白い手首が見えた。昔とひとつ変わったのは、手首に釧が嵌まっていることくらいだ。
修理されて以降は引き出しの中に収まっていた。でも今は僕と揃いの義姉上の釧が品良く腕を飾っている。
「会議はどうでしたか?」
ベルさまの喉が上下するのを見届けてから尋ねる。
「……長かった」
ため息と一緒に短く吐き出された言葉は、とても重かった。日数だけなら前の会議の方が長かった。でもベルさまにとっては今回の方が辛かったようだ。
「こっちは何日経った?」
「七日目です。丸六日は経ちました」
「そうか。思ったほどではないね。私が不在の間に何か問題は?」
ベルさまが再び茶器に口を付ける。顔色が少しずつ良くなってきた。眉間のシワが消えかかっている。
「王館外で大きな問題はありません。ただ……」
「ただ?」
疲れているベルさまに伝えたくない。でも理王としては聞いてもらわないといけない。
「坟さんが……亡くなりました」
茶器を机に戻す手が一瞬だけ止まった。ベルさまは、そうと短く返事をしてそっと茶器を戻した。
「残念です」
今から二日前だ。垚さんが知らせてくれた。理王会議中は公にはしないと言っていたから、またほんの一部しか知らない。実は潟さんにも言っていないことだ。
垚さんは会議中でも土理王さまに連絡は出来る。けど、会議に支障が出るかもしれないから、伝えないと言っていた。
「治らなかったか」
「はい……残念です」
原因は分かっている。地獄の扉を開けるために魂魄を消耗したからだ。重傷だとは聞いていたけど、まさか亡くなるなんて、思ってもいなかった。
地獄への滞在時間が長くなるほど、土師の負担は大きくなるそうだ。森さんが先に帰ってから、僕たちが戻るまで二十日以上経っている。
「土理王さまに謝罪に行った方が良いでしょうか?」
僕たちのために地獄への扉を開けてくれた。僕が坟さんを傷つけたようなものだ。
「やめなさい。土師への侮辱だ。垚は何て言った?」
「僕のせいじゃなくて、耐えられなかった坟さんに問題があると……酷くないですか?」
会議が終わって土理王さまが帰ってきたら伺うつもりだった。けれど垚さんは謝罪は不要だと言い放った。
「別に酷くないよ。垚が正しい。彼女は職務を全うしたのだから、それを労うならともかく、謝罪はまずいよ」
ベルさまにも謝罪を否定されてしまうとは思わなかった。
「土師としての仕事に誇りを持っていた者に、『そんな仕事をさせてごめんなさい』と言うつもりなのか?」
そこまで言われてしまうと言葉に詰まる。理がどうこうというわけではないけど、僕が間違っているようだ。
「では謝罪ではなくてお悔やみなら……」
「それなら問題ないけど、弔問をする時間はないよ」
ベルさまが茶菓子に手を伸ばした。カリッという軽い音とは対照的に、ベルさまの表情は重かった。
「理が少し変わった」
「太子はひとりで行動しないこと……ですか?」
何故か背筋が冷たくなった。背中を水母にでも撫でられたような奇妙な感覚だ。
「そう。多少の例外を除いて、『太子はひとりで行動する』という理を変更する。初代さま方の承認も得た」
理を変更するには初代も含めて全会一致が求められる。父上もそこに加わっているはずだ。何だかむず痒い。
「『佐』という役職を新設することになったよ。太子の補佐役としてね」
自惚れかもしれないけど、潟さんがヤキモチを妬きそうだ。
「その人選をしないといけない。それと、佐は『混合精であること』が絶対条件だ」
混合精と聞いて、まず浮かぶのが沸ちゃんと滾さんだ。どちらかが僕の佐になってくれれば、気兼ねなく過ごせるけど……。
「『自らの属性を持たない混合精から任命すること』だそうだよ。雫が考えている貴燈姉弟はダメだ」
ベルさまには考えていることがバレバレだ。
竹伯が言ってたのはこれだったのか。
免が合成理術を用いるなら、こちらも三属性以上で対抗すれば良い、と竹伯は言っていた。
混合精は初級理術しか使えないけど、その代わり二属性の攻撃ができる。
「雫が選べるのは、水以外の性質をもつ混合精だよ」
例えば、僕の佐に土と火の混合精が就くとしたら、水と火と土の三属性を得ることが可能だ。仮に視察中に免と出くわしてしまっても、ひとりで相手をするよりは勝率が上がりそうだ。
場合によってはこちらも合成理術で対抗できる。水球も火球も初級理術だけど、正しく組み合わせれば合成できる。威力抜群の水蒸気爆発だ。
「頼める精霊がいるでしょうか?」
「高位の混合精なんてそんなにいないからね。実際は消去法になるかもしれないね」
ベルさまは手を僕に伸ばしながら、水精台帳を返すよう言った。すでに使い終わって切るので、ちょうど良い。
「雫の佐はどの混合精にしても他属性だ。他の理王からの推薦を受ける。逆に私は混合精を他属性へ推薦しなければならない」




