253話 五山の砦
「恒山ってさっき仰った……この砦のひとつですよね。何でそこに……」
ついさっき知った山の名前を、こんなにすぐに聞くとは思わなかった。しかもそこに先生がいるとは。
「実は雫が地獄へ行っている間に全水精に命令を出したんだ。どんな小さなことでも構わないから、漣についての情報を上げろと。低位からの報告も直に受けるけど、虚偽の報告は厳罰に処すとね」
全水精ってすごいな。
漕さんが触れに回ったのかな。息切れしている姿が頭に浮かんだ。
低位の水精にとって水理王と直に繋がれるチャンスだ。一介の低位が自分を理王に認識してもらう機会なんて一生ない。低位だったからよく分かる。
でも、だからこそ虚偽の報告が増える。そこに事前の脅しを入れている辺りが流石だ。
「四件の内、二件ほどでっち上げがあったから、領域と名前を没収しておいたよ」
……流石だ。容赦ない。
お茶が入ったよ、くらいの軽さで言われたけど、精霊が二人消滅している。
ちなみにベルさまの追加情報だと、僕の視察に非協力的だった精霊のひとりだそうだ。激の仲間がまだ残っていたらしい。
まさかとは思うけど、先生をダシに残党を洗い出そうとしていた…………なんてことはないか。虚偽は許さないと前置きをしているのだから、それはない。そう信じよう。
「一件は塩湖の近くからだ。潟と見間違えたんだろう。だから処分はしなかった」
「……私はそんなに老いてみえますか?」
潟さんが少し悄気ている。心なしか、背中が丸くなっている。いつもより小さく見えた。
潟さんが老けているというよりも、先生が若返ったらこんな感じだと思う。ふさふさの濃い銀髪は父子でよく似ているし、背筋もピンと伸びている。それが自信の表れであることが窺えた。
「で、もう一件は海豹人からだ。これは驚いたね」
潟さんの呟きをすっかり無視して、ベルさまは続けた。
「どこの海豹人ですか?」
「沾北海の海豹人だよ。海豹人が自分の領域以外のことに興味を示すとはね」
沾北海の海豹人といえば、うっかり永の名をつけてしまった仔がいる。次の群長だと言っていたから、それを見越して協力してくれたのかもしれない。
ベルさまにそう言うと、納得した顔になった。そしてすぐに何かを思い出そうとするように、首の後ろに手を当てている。
「海豹人に名付けか。前例はあるけど、いつだったかな……二十代か、二十一代目くらいだったと思うけど」
「次の代は味方になってくれるって言ってました」
それが良いのか悪いのか、はまだ分からない。でも敵対されるよりはずっと良い。
「海豹人の忠誠は絶対だ。理王への忠誠は一応あるけど、それは領域を確約しているからであって、心からとは言い難い。本当の忠誠心はなかなか得難いものだよ」
理王すら領域のための存在でしかないのか。そんな海豹人から次の代とは言え、配下になると宣言されている。それってすごく貴重な体験だ。
「雫さま。私がいない間に海豹人まで手懐けるとは流石です」
潟さんが妙にキラキラしている。もう外は暗い。月光が潟さんに集中しているように見える。
「海豹人は元々嘘はつかないけど、そんな事情なら尚更だ。信用できると思うよ」
ベルさまは潟さんの存在をきれいに無視した。潟さんに付き合っていたら僕の賛辞を聞かされ続けそうだ。恥ずかしくてやっていられない。
「なら恒山へ、先生を迎えに行きましょう」
「うーん。そうしたいところだけどね。あそこは立入禁止だ」
ベルさまが椅子に腰を下ろした。僕も自分の机に戻って、久しぶりに椅子に感触を確かめる。当然のように潟さんが隣に付いてきた。
「入るのに手続きか何か必要なんですか?」
まぁ、それもそうだろう。
精霊界を守っている砦に簡単に入れたらおかしい。地獄みたいに複雑なのかもしれない。
地獄は、紹介状や許可証をもって、更に土師が身を削って、やっと入れた。同じような手間が必要だとしたら、水先人が嫌がりそうだ。
「いや、手続きなどないよ。立入禁止なんだから。入れないだけ」
ベルさまは不思議そうに首をかしげた。銀髪が肩からひと房滑り落ちた。何を言ってるんだと言いたそうだ。
地図を手際よく丸めてから、灯り取りの蝋燭に火を追加した。
「一切の例外なく立入禁止だよ。恒山は水精管理とは言え、理王でも入ることは許されない」
「誰が許さないんですか?」
ベルさまの手が止まった。不自然な形で宙に浮いている。
先生がそこにいるのなら迎えにいきたい。もしくは助けに。潟さんも同じ気持ちのはずだ。
先生が自分の意思でそこにいるのか。それとも免に何かされたのか。それは分からない。でも、いてはいけないところにいるなら、尚のこと連れ戻さないといけない。
ベルさまは自虐的な笑みを浮かべて手を下ろした。
「誰に、か……。世界の理だろうね」
また世界の理か。
僕を散々振り回して、また邪魔をするのか。
腹が立つとまではいかないけど、少し不愉快だ。そう感じた瞬間、ぞわりと背中を何かが走っていった。
「……雫さま。お静まりください。それ以上、理へ反抗してはいけません」
「へ?」
潟さんに肩を叩かれた。そう言われて、自分の顔が強張っているのに気づいた。肩も力が入っている。
息を吐き出して肩が下がると、潟さんの手が離れていった。反対の手が剣の柄に触れているのが、チラッと見えた。そこまで心配させていたのか、と自分の考えに後悔する。
「ごめん、またやっちゃった」
潟さんが来たばかりの頃も同じようなことがあった。理への不軌はベルさまへの反逆と一緒だ。
僕たち精霊が理の上に存在していることを忘れてはいけない。
でも……。
「理って何だろう?」
そう思わずに入られなかった。
でも声に出ているとは思わなかった。慌てて口を覆ったけどもう遅い。ベルさまにも潟さんにもしっかり聞かれてしまった。
「王太子の言葉とは思えないけど、同感だね」
ベルさまは僕を咎めるでもなく、貶すでもなく、同調してくれた。同調というより率直な感想かもしれない。
「御上も理王の言葉とは思えませんが」
潟さんが正しく突っ込みを入れた。ベルさまへの反逆どころか、理王本人が疑問を感じていいる。
「ベルさま、先生は……」
コンコンッと控えめなノックの音で会話を中断された。ベルさまの視線を受けて、潟さんが扉を開けに行く。
「何か?」
潟さんの背中で訪問者は見えない。でもこの暖かい気配は火精に違いない。
「夜分に失礼致します。火理王の使いで参りました」
警戒心を強めた潟さんに対し、火精は畏まった態度で臨んでいる。普段から水精は火精に対して威圧感がある。今の潟さんみたいに意図的に威圧したら縮み上がってもおかしくない。
でも威圧感たっぷりの潟さんにも屈せず、火精はしっかり接している。余程の猛者なのか、それとも鈍いのか。橙色の髪が隙間から見えた。
「通せ」
ベルさまの一言で火精が部屋の中に通される。執務机の蝋燭が勢いをつけた気がした。




