237話 ベルを巡って
「襟は元々パリッと立てるのがお好きなので、余程でなければ直さなくても大丈夫だと思います」
「パリッと?」
戦いは一時中断した。
「御上はしっかり政務に取り組んでいますよ」
ベルさまがいかに素晴らしいか。
僕が助けてもらってから十年分の話を抜粋して義姉上に聞かせた。勿論、全てとはいかないけど、義姉上は疑うような顔で聞いていた。
「御上は何でも知ってるし、何でも出来ます。僕、太子になる前は侍従でしたけど、僕なんか必要ないくらいでしたよ」
下働き時代から侍従になってもやることはあまり変わらなかった。ベルさまを支えられれば何で良い。
「知識が豊富なのは知ってるけど、あの何も出来なかった精霊が……変われば変わるものね」
「僕の仕事は掃除したり、食事を用意したりすることくらいでしたね」
義姉上が首を傾げる。
「あの精霊が食事?」
「えぇ、普通に召し上がってましたよ」
食べなくても良いと知ったのは後からだけど、それを知らずに食事の用意をしていた。文句も言わずに食べてくれるから、ずっと作り続けてしまった。
僕も食べずに生きられるようになって、最近では食事の機会は減ってしまった。今まで僕に合わせてくれたのだと分かって、ありがたいと同時に申し訳なさもある。
「水羊羹とか、水炊きとか、あと水餃子も好んでました。それから卵焼きは甘くて固めが好きで、あと最近、大量の蓮根餅が送られてきて、僕は食べ切れなかったのに、御上はたった三日で……」
「もう、良いわ!」
ナックルが飛んできた。けれど動きが乱れている。僕にあまり近づくことなく、義姉上の元へ戻っていく。
「もう、良い。分かった。……あの精霊が変わったのは雫のお陰だってことが良く分かったよ」
「義姉上?」
義姉上が急に地を蹴って飛び上がった。ナックルを嵌めた手を大きく引いている。さっきまでこういう打ち込みは何度かあったけど、拳の先に理力が集まっている。
「雨の理よ 命じる者は 霈の名 限度を越えて 降り裂き参れ……『清々氷雨撃』」
急に再開された戦いは、物理と理術の混合戦になった。
義姉上のナックルを玉鋼で受け止める。鈍くて固い音が大きく響く。顔の目の前で二つの武器がぶつかり、大きな圧力が体にのし掛かる。
義姉上の体重をかけただけではこの力は生まれない。理力を込めた物理攻撃ならではだ。剣だけで防ぐのは困難だ。
「っ!」
細かい氷の粒が頬を掠めた。
武器の交差したところから、無数の氷の粒が生まれている。ひとつひとつが刃のように
鋭く、僕の全身を狙って飛んでくる。
服には細かい筋がいくつも出来た。服のない部分は切り傷だらけだ。まるで鋭い爪で引っ掛かれたような太くて長い傷がいくつも出来てしまった。
「水脈よ 命じる者は 雫の名 湧いて踊って 癒して沸かん……『熱湯鉱泉』」
義姉上と僕の間に小さくヒビが入り、一瞬の後、温泉が噴き出した。
ちょうど僕の剣と義姉上のナックルを巻き込むように湯が伸び上がり、義姉上の理術を溶かしていく。
「やるね。流石、私の義弟だわ」
勿論、僕たちもずぶ濡れだ。
……思い出す。
初めて理術を使ったときのこと。
水球を作るのを失敗して、部屋にお湯を湧かせてしまった。自分では止めることも出来なくて、ベルさまに助けてもらった。
「雫がいれば私のことなんか忘れてるわね、きっと」
義姉上が少し自嘲気味にそう言った。そう言いながら濡れた前髪を掻き上げると、全身が一気に乾いていた。
「ベルさまは義姉上のこと、想ってますよ」
僕も倣って乾かしてしまう。温泉の成分を利用して、体の細かい傷も治してしまった。深いものと服の傷はそのままだけど、あとでゆっくり考えよう。
「ベルって呼んでるの?」
あ、しまった。
人前では御上って呼ぶようにしていたのに、うっかりしていた。ベルさまのことをよく知っている義姉上の前で、油断したかもしれない。
でも確か、義姉上もそう呼んでいたはずだ。
「そう。何だか悔しいね。ベルって呼んでいたのは私だけだったのに」
……地雷を踏んだかもしれない。言わなければ良かった。
「私がいなくなって落ち込んでいるかと思ったけど、杞憂だったみたいね。バカみたい。私ったら自意識過剰だわ」
義姉上はそう言いながら僕から距離を取る。膝を限界まで下げて、勢いよく飛び込んできた。
再び剣でナックルを受け止める。今度は激しい打ち合いになった。
「ベルさまは、今でもっ貴女のこと、大切に思ってますっ!」
金属が激しく悲鳴を上げる。
義姉上の速さに対応するのがやっとだ。しかも序盤と違って全力で打ち込んでいる。これだけ力を込めて、この素早さで動けるなんて、一体、どんな訓練をしたのか。
「お世辞は良いよ。雫はベルをよく理解してるわ。侍従にしたくらいだから、ベルも雫を信用してるんでしょう。信用できる者が側にいるなら朗報だよ」
右手を剣で押さえている内に左から拳が飛んできた。剣が間に合わないので水盤と氷盤を重ねて防ぐ。
こんな使い方は初めてだ。
義姉上の右手が二枚の盤を砕いている。その間に、剣で左手を払った。義姉上が一瞬バランスを崩した隙に少し距離を取った。
すぐに詰められると思ったのに義姉上は寄ってこない。
「私はもう、必要ないね」
「何でそんなこと言うんですか」
義姉上は疲れたように見えた。ダランと両腕を下ろしたまま、構えようとしない。
「ベルのことを癒してあげようと思ってた。早く回復して眠りから覚めて、そうしたらベルのこと支えられるって思ってたけど、もう私は必要ないね。雫がいればベルは大丈夫」
ベルは大丈夫だと言う義姉上に急に怒りが込み上げてきた。
何が大丈夫なんだ。ベルさまがどんな眼差しで釧を見つめていたか。ベルさまがどれだけ義姉上のことを……。
「ベルさまはずっと貴女のこと想ってるのに、なんで分からないんですか!」
義姉上に向かって鉄砲水を放った。僕から攻撃するのは初めてだ。潟さんの魄を傷つけたくないけど、今は必死だった。
義姉上は案の定、鉄砲水を軽くあしらう。義姉上にとっては意味のない攻撃だ。
「貴女に貰った釧が壊れて、諦められずに金理王さまに修理を依頼して、二十年かかってようやく直って、今も大切にしまってあるのに」
義姉上の瞳が動いた。しっかりと僕を捉える。
「雨伯だって霓さんだって義姉上の復活を待ってるのに。皆、義姉上のこと待ってるのに。それを……忘れてるなんてひどいことを言わないでください!」
義姉上を見つめ返す。空色の青い瞳と視線がぶつかる。さっきは吸い込まれそうな……と思ったけど、今はそう思わない。
諦めと失望が混ざった瞳に意思の強さが削られている。
「私は……」
「ベルさまの気持ちを疑うなんて、僕が許さない!」
義姉上が何か言いかけたのを遮った。剣を突き刺して右手で支え、左腕を振り上げる。
それだけで理力が集まる。足が引っ張られそうになるほどの勢いで、理力が渦を巻く。僕の体が理力に巻き込まれていく。
「在る理 命じる者は 雫の名 水盛侮土の 欠片を見せん……『土石流』」
いつから足場が土だったのか定かではない。
でも土が川のように流れていく。大雨の後の川のようだ。高速でまっすぐ流れ、義姉上が咄嗟に作った水壁を無視して飲み込んでいく。
「僕だってベルさまのこと好きなのに!」
パリパリッと音がして、僕から何かが剥がれ落ちていった。
※当作品はBLではありません(?回目)




