228話 好きということ
ベルさまは巻物を机から取り出して、僕に差し出した。この部屋で黄色い巻物は異質さを放っている。
「まずは土理王から地獄への紹介状だよ」
「あ、ありがとうございます」
巻物を広げて中を確認する。
……全く読めない。
水精と土精では使う字が違うのか?
いや、そんなはずはない。垚さんや坟さんと市へ行ったときも、そんなことはなかった。
「それは地獄の字らしい。私も読めないよ」
潟さんも覗き込んできたところで、ベルさまが片手を上げた。見ても無駄ということだ。
地獄の字ってこんなに複雑なのか。曲線と直線と長線と短線と……丸とか四角とかも入っている。
「これが面倒なことですか?」
「とてもね」
ベルさまからは言い様のない疲労感が溢れていた。仕事で疲れたという雰囲気ではない。
「土理王が直々に届けに来て、長いこと居座るものだから仕事が滞って滞って」
ベルさまはバサバサと書類の束を振ってみせた。それをやや乱暴に未決事項の箱に放り込む。
「土理王さまが直接来るのって珍しいんですか?」
お使いが届けに来るのが一般的だろうけど、別に本人が来ても良い。……とは言え、僕のためにわざわざ申し訳ない気もする。
「珍しいどころか……理王が自分の王館を長く空けることはないよ。やはり王館に理王がいないと色々支障が出るからね」
ベルさまは僕が王太子になる前、結構な頻度で視察に出ていた。焱さんが怪我をしたとき、火の王館へ行ったこともある。それに火理王さまだって、先代木理王さまが危篤の時、木の王館に行っていた。
「他の王館に少し行く程度なら問題ないけど、緊急時でなければ避けるよ」
そういうものなのか。
話の流れで、金理王さまと初めてあったときのことを思い出した。金精と一悶着あった次の日、金理王さまは僕を迎えに来てくれた。
でもあの時、金理王さまは金の王館の境界に立っていた。金の王館から出ないようにしつつ、ギリギリの所まで来てくれたわけか。
「土理皇上が直々に……となると、話が長くなりそうですねぇ」
呟いたのは潟さんだ。遠い目をしているのは何故だ。僕と会ったときは、そこまで話の長い印象はなかった。
「あぁ。紹介状を作るのが如何に面倒だったか……に始まって、雫が土精に手を出したと文句をたらたらと述べ、果ては王太子時代の話を掘り返された」
「それは日が暮れそうですね」
ベルさまはうんざりした顔をしている。それから首を後ろに倒して体を伸ばした。
「日暮れどころか、日の出前から来てたよ」
それはどの時間が基準なのか。朝から晩までいたのか、それとも夜から昼までいたのか。いずれにしても本当に長い時間滞在していたらしい。
それにしても、ベルさまと会ってそんなに話が長いとなると、考えられるのはひとつだけだ。
「土理王さまは御上のことが好きなんですね」
「「はぁ?」」
ベルさまと潟さんの声が見事にハモった。睨まれているわけではないけど、変な目で見られている。
これは残念な者を見る目だ。この視線を浴びるのは久しぶりだ。でも、そんなにおかしなことを言った覚えはない。土の王館で会ったときも、ベルさまが退位するのではないかと焦っていた。
好きだけど素直になれない。そんな感じだ。
そうだ。好きと言えば……。
「御上。お願いがあるのですが」
何の前触れもなく突然、話を変えてしまった。ベルさまが少し意外そうな顔をした。瞬きを数回して、表情を改める。
「珍しいね。何?」
「添という仲位の精霊を王館に置いていただけないでしょうか?」
直球でお願いする。潟さんの配偶者だとは言わなかったのに、ベルさまは目を潟さんに向けた。
顔は動かない。視線だけを動かす様子を見ていると、簡単には説得できないような気がしてきた。
「……理由は?」
潟さんを見つめたままだけど、僕への質問だ。潟さんはベルさまから目を逸らして、やや下を向いてしまった。
「欠員補充と言いますか……」
苦し紛れの言い訳だ。ベルさまにこんな理由が通じるわけはない。
「添が漣の代わりになるのか?」
案の定、ベルさまは呆れた様子で溜め息を吐いた。更に肘掛けに体重を掛けて、姿勢を直そうとしている。これは話を切るときのベルさまの癖だ。
「というのは表向きの理由で、ただ単に新婚さんを引き離したくないだけです」
率直にそう言うと、ベルさまは中途半端な体勢で止まってしまった。瞬きもせず、濃い色の瞳が僕を捕らえている。
「…………ぷっ……フッ……ハハハハッ」
ベルさまが壊れた。
いや、元へ。ベルさまが急に笑い出した。残念ながら、顔は伏せてしまって見えない。こんなに笑うベルさまを見るのは……もしかしたら初めてかも知れない。ベルさまの新鮮な一面を見られた。
「…………流石は雫だね。その正直さが好きだ」
好きだと言う言葉にドキリとする。
どうも好きだという感情に敏感になっているみたいだ。世界に好かれているせいだろうか。
「配偶者が気になって、潟さんも仕事に支障が出るかもしれませんし」
今度は潟さんが驚いた顔をした。職務怠慢の予告をされたようなものだ。顔の前で忙しく手を振っている。
「最初の理由だけなら即刻却下だったけどね」
ベルさまが体を背もたれに預けた。口元に手を置いて、少し考え込んでいる。
「雫。添の所へ視察へは行っていないよね。何故、候補になかったか分かる?」
「領域がはっきりしていないからですか?」
泉や塩湖と違って、雨や波は領域がはっきりとは決まっていない。雨伯が良い例だ。竜宮城という居城はあるけど、本体が雨だからどこにいるのか掴むことが難しい。
「それもある。でも私が視察先から外した理由はそれが主じゃない」
詳しく聞こうとすると、口を開いた瞬間、ベルさまに遮られた。
「すぐに返事は出来ない。少し考えておこう」
「お願いします。もしダメなら潟さんを塩湖に返してあげてください。直接、王館に通う方法もあるかと」
ベルさまはチラッと潟さんを見た。その視線を待っていたかのように、潟さんが一歩進み出る。
「御上。私は雫さまを第一に考えております。添のことは大切ですが、まずは……」
「添は沿の子だろう。大事にするのは悪いことじゃない」
知らない名が出てきた。
でもベルさまは今後こそ、椅子の上で体勢を変えてしまった。もうこの話は終わりだろう。
「それと面倒なことが、もうひとつ」
すっかり忘れていた。
ベルさまの話を先に聞くべきだったのに、自分の話ばかりしてしまった。
「森が無患子の視察に行ったらしい」
ベルさまは机の上に肘をついて、両手を組んだ。潟さんはひとり話に付いていけず、僕とベルさまを交互に見ている。
申し訳ないけど、今は説明してあげる余裕がない。
「それで……何かあったんですか?」
「木理は命令ではなく、森に依頼という形で理力の確認に行かせたそうだ。理力が同じ性質なら親子と言えるし、似ていれば親族と捉えて良い」
命令でないことにどんな意味があるのか。
嫌なら拒否出来るとか。
外出しないように言われていたのに出掛けてしまえるとか……僕の嫌な思い出だ。
「『理王の親になんて無礼なことをするのか』と森の理力調査を拒絶した上、『息子が理王なら自分達を高位精霊に引き上げろ』と理不尽な要求をしてきたらしい」
「はぁ!?」
ベルさまに向かって、変な声を出してしまった。
時々聞かれますが、当小説はBLではありません(声を大)




