223話 塩湖での出来事
「お、奥さんですか?」
娘さんじゃなくて?
ついつい添さんのことを観察してしまった。上から下までどう見ても、子どもだ。じろじろ見ていたら、案の定、添さんが顔を真っ赤にして怒り出してしまった。
「何よ! 何か文句あるの!?」
いや、文句というか……何というか。
精霊を見た目で判断してはいけない。土理王さまだって、雨伯だって、僕よりずっと年上なのに見た目は子供だ。
「雫さま、申し訳ございません。気性の荒い妻でして……添、挨拶を」
添さんは僕に噛みつかんばかりだ。潟さんが襟を掴んで押さえている。
「はぁ? なんでこんな奴に」
「添」
潟さんが声を低くした。さっき馮さんに対して怒ったときのような声色だ。
その声に添さんはビクッと肩を竦める。その向こうで、何故か馮さん達までビクビクしていた。
添さんはチラッと僕を見た。悔しそうに唇を噛んで、ぎこちない動きで潟さんを見上げる。
「だって……こいつのせいで貴方が怪我したんじゃない」
添さんは涙声だ。
うんうん。その気持ち、分かる。
思わず頷いてしまう。
「私の怪我は激の企みによるものです。雫さまは関係ないでしょう」
直接的な原因はそうかもしれない。でも大元の原因は僕が頼りないせいだ。
口を挟もうとすると、添さんが潟さんにすがり付いた。
「それにっ! ……こいつがいなきゃ、貴方は王館に行かずに済んだじゃない!」
添さんが潟さんの服を掴んで揺さぶる。添さんの力では潟さん自身はびくともしていない。ただ、前髪が規則的に揺れている。
「ずっと一緒にいられたのに、こいつがっ……こいつが弱すぎるから、貴方が護衛する羽目になったんじゃない!」
添さんが僕を指差した。
その直後、塩湖の水が急激に引き始めた。ここから見える畔の水が、奥へ奥へと引き寄せられている。
塩湖の一部が異様に盛り上がっていた。塩湖の中央部と思われる部分だ。水はそこへ集まってぐんぐん上へ伸びていく。
「あ、兄貴……」
すっかり気配を消していた馮さんが心配そうな声を出した。
さっきの件もあるし、無茶をすれば目の治りが悪くなる可能性がある。
「潟さん。怒らないで。僕は率直な意見を聞きたいから」
何とか潟さんを宥めようとする。けど潟さんは首を横に振った。その傍らには添さんがしがみついている。添さんの肩には潟さんの手がそっと乗っていた。
「私では……ありませ、ん」
潟さんがもう片方の手で自分の目元を押さえた。体が前後に揺れている。
「潟さんっ!」
「潟!」
「兄貴!」
潟さんが膝をついてしまった。膝をついても、上半身はまだフラフラしている。
塩湖の盛り上がりは更に高くなっていた。まるで筍のようだ。高さはすでに筍どころか、竹でも及ばない。もはや水の塔と言っても良い。
グルグルと回転しながら、まだ伸びていく。塩湖中の水を集める気だろうか。
「誰か、が塩湖の水を、使っています」
「潟、しっかりしてっ!」
添さんが心配そうに潟さんの背中を擦っている。馮さんはどうしていいか分からず、おろおろしている。
そうこうしている内に、塩湖の動きが変わった。
中央の塔から無数の細い水流が編み出された。今度は塔というよりも、枝の多い木のようだ。
「雫さま……お逃げください」
潟さんが肩で息をしている。相当苦しそうだ。声も掠れている。
「雫さま」
「大丈夫。何とかするから」
潟さんの怒りではない。とすると世界の理力の仕業のはず。
僕が止めないと。
「馮。雫さまを……」
「で、でも兄貴」
潟さんが馮さんの腕を引っ張った。僕を連れて離れるように指示をしている。
でもその会話は無視だ。潟さんたちから離れて、塩湖の畔に向かう。さっきまで水があった場所だ。水が中央に引き寄せられて、湿った砂が顕になっていた。
水の枝の先に真っ白な氷の粒がたくさん付いている。ここからだと小さく見える。けど、多分近くで見たら、ひとつひとつが拳くらいの大きさがあるだろう。
そのひとつが枝から放たれる。
豪速球だと思ったのは一瞬だけだった。すぐにこっちに飛んで来る……と思ったのに、なかなか来ない。
遅い。
ゆっくり宙を漂っているように見える。白い球が時間を掛けて僕の元へ辿り着いた。木の実をもぎ取るように、宙からそれを取り上げる。
氷の粒だと思っていた物は、塩で出来た球だった。石のように硬い。さながら岩塩だ。
でもこの速度なら、水壁か氷壁で防げそうだ。何なら氷盤でもいけるかもしれない。
理術を仕掛けようとすると、体がフワッと浮いた。続いて頬に風が当たる。
「ちょっ……馮さん! 下ろしてっ!」
馮さんに足元を掬われた。馬の姿に戻った馮さんの背に強引に乗せられている。お腹が馮さんの背骨に当たっている。揺れる度に鳩尾辺りがひどく痛んだ。
馮さんは、ついさっき乗せてもらった時とは比べ物にならないくらい速い。どんどん畔から遠ざかってしまう。潟さんたちの姿が見えなくなってしまった。
「キャアッ!」
添さんの悲鳴が聞こえた。
添さんが狙われている。添さんが僕を悪く言ったと世界に判断されたら、無事では済まない。
土精たちは土理王さまがいたから何とかなった。今、ここには水理王はいない。まして、何が起こっているのか、分かるのも僕しかいない。
「馮さん。戻って」
潟さんの真似をして出来るだけ声を低くしてみた。
馮さんは止まらない。気づけば左右を水棲馬に固められていた。
馮さんと潟さんの関係がどういうものなのか分からないけど、潟さんを恐れていることは確かだ。さっき会ったばかりの僕の言うことなんて聞きやしない。
でもそうはいかない。馮さんの鬣を強めに引っ張った。
「……馮。戻れ、太子の命令だ」
言葉に理力を少しだけ纏わせた。案外器用なことが出来るようになってきたものだ。
馮さんは前のめりになって、ようやく止まった。その反動を使って馮さんから飛び降りる。
戻れとは言ったものの、止まってさえくれれば良い。
雲を呼んで飛び乗り、一息で戻った。馮さんは着いてこようとしたけど、途中で振りきってしまった。
元の場所へ近づくと塩で真っ白になっていた。まるで雹が降ったみたいだ。そしてまだまだ飛んで来ている。
「潟さん、添さん!」
ゆっくりした飛び方なのに、潟さんと添さんは避けることが出来ていない。
潟さんの方がダメージが大きい。塩湖を使われて只でさえ、調子が悪いのに、添さんを自分の体で匿っている。
容赦なくぶつかっている塩の弾丸をまともに受けていた。
僕も宙を漂う塩が邪魔で、中々近寄れない。時々払い落としながら二人に駆け寄る。
潟さんの肩に手を置くと、潟さんが顔を上げた。僕の気配だと分かったみたいだ。
「雫さ、ま。来てはいけま……」
「大丈夫。今、何とかするから。……『水の箱』!」
二人まとめて水の箱に入ってもらった。塩の弾丸がどこから来ても大丈夫だ。潟さんが何か言っているけど、残念ながら聞こえない。
……ということはこちらの声も聞こえないはず。ちょっとくらい大きな声を出しても平気だろう。
「僕の大切な精霊たちをどうして傷付けるんだ!」
誰もいない塩湖に向かって叫んだ。




