222話 潟の怒りと仲間たち
潟さんの目が大きく開かれた。けど恐らくその目は僕を映してはいない。
潟さんが見えていないのをいいことに距離を詰める。俯き加減の潟さんを下から覗き込んだ。瞳が膜を張ったように濁っている。
「……気がつかれましたか」
潟さんは諦めたようにため息をついた。僕が近づいたことは気配で分かっただろう。ゆっくり探るように手を上げて、僕の肩に触れた。
「一時的なものです。御心配には及びません」
それを聞いて少し安心した。
もう王館に戻って来てもらえないかと思った。目が見えなくても出来る仕事はあるとは思う。でも僕と一緒に出掛けたり、戦ったりするのは難しいだろう。
焱さんも片目を負傷したことがあったけど、それも杰さんの頑張りのおかげで無事に治った。
最初は見え方が違うから慣れるのに時間がかかりそうだと言っていた。その割に今はもう平気で活動している。
「潟さん。完治にはどれくらいかかるんですか?」
あまり長くない答えを期待してしまう。
潟さんは笑みを深くして、ふと笑った。僕を見ているようで、視線は僕の顎辺りに向いている。
前の身長に合わせて話しかけているのだろう。今、僕の背は潟さんと大して変わらない。
「そんなことより……そこにいるのは水棲馬ですか?」
目の負傷を『そんなこと』で片付けるのはどうかと思う。
潟さんが見えない目を向けたので、僕もつられて首を傾ける。馮さんは忍び足でこの場から去ろうとしていた。
「馮さん達がここまで案内してくれたんですよ」
ね。と馮さんに笑顔を向ける。
馮さん達と言ったのは他の水棲馬への警告だ。馮さん同様、逃げようとしていたのを止めさせた。
「馮。まさかとは思いますが、雫さまにまで、いたずらを仕掛けて……などという不届きなことはしていないですよね?」
潟さんの声が低い。腰まで響きそうな低音だ。
「イヤ、嫌いやっすよー、潟の兄貴ぃ。俺たちは雫の兄貴を案内しただけっすから」
馮さんの額に汗が光っている。他の水棲馬たちはどうか知らないけど、馮さんは潟さんのことを恐れているようだ。
ふと塩湖から嫌な理力を感じた。水面が小刻みに震えている。
「…………雫さま?」
潟さんが真偽を僕に確かめてきた。
「ちゃんと案内してくれましたよ。流砂とか落とし穴とかあって楽しかったですよ……ね?」
馮さんの懇願するような目には気づかなかった振りをした。悪戯っ子にはちょっとお仕置きだ。
僕がそう言うと、潟さんが大きく息を吸い込んだ。倍の時間をかけて吐き出すと、ゆっくり顎を上げた。
いつものニコニコとした笑顔はどこへ行ったやら。濁った目が爛々と耀いている。
「貴様ら……」
ドォンッという音とともに塩湖が爆発した。パラパラと飛沫が降ってくる。
潟さんの怒りをそのまま表している。僕も本気で怒ったら泉が爆発するのか、ちょっと他人事のように考えてしまった。
「あぁあ兄貴! 俺たちは添の姉御に頼まれやして……」
塩湖の真ん中辺りに壁が聳えている。水壁か何かだと思っていたら、塩湖の水が高波になっているだけだった。
多分、理術でも何でもない。潟さんの怒りがそのまま形になっているだけだ。
「兄貴。そんな体で無茶したら傷口が開きやす!」
「無茶? 潟さん、止めてください。落ち着きましょう」
潟さんの肩に手を乗せて、落ち着かせようとする。
触れてみて初めて気づいた。
潟さんの体はブルブルと小刻みに震えていた。塩湖の水面と連動しているらしい。
「潟さん。そこまで酷いことされてないですから。落ち着いてください」
「しかし、私が忠誠を誓った雫さまに失礼を……。やはり圧死に」
待って。不穏すぎる単語が。
「圧死させるつもりだったの?」
塩湖の波壁はそのため?
いや、いくら何でもそれはないか。僕の聞き間違いだろう。いや、そうであってほしい。
「足りませんか? ならば八つ裂きに」
「いや、十分です。……じゃない、止めてください!」
そう言った瞬間、頭の後ろにピリッと理力の動きを感じた。
振り向いている余裕はなかった。
潟さんを押すようにして、素早く場を開ける。
その直後、さっきまで僕が立っていたところに何かが突っ込んできた。
砂が舞い上がって良く見えない。影だけ見ると、人型が立っているようにも見える。
「お前が水太子かーっ!?」
女の子?
土理王さまのような高めの声だ。
砂が降り落ちると、雨伯よりも小さな女の子が現れた。
自分の身長と同じくらい大きい剣を握っている。銀色に輝く太い剣は、取れたての鮭みたいだ。肩に担いでいても、刃先が砂に着いていた。
「そうですけど……」
「お前なんか大っ嫌いだ!」
おっと……初対面の精霊に嫌いと言われてしまった。でも不審者扱いされたときよりはダメージが少ない。
周りの理力が音にならない音でざわつき始めた。世界が僕に味方しようとしているのを感じた。
止めてと心の中で念じてみる。一向にざわつきが収まる気配はない。
「その声は添ですね! 貴女もやめなさい! 雫さまに何ということを! 無礼ですよ!」
潟さんの知り合いか。
潟さんは僕の言葉を遮って、前に出てきた。見えないはずなのに、僕を後ろに庇おうと腕を伸ばしている。
「うるさいうるさい! 水太子がしっかりしていれば、貴方がこんな目にあうことはなかったじゃない!」
「添!」
……何も言い返せない。
僕の代わりに潟さんが言い返している。それも申しわけない。潟さんの腕は僕の胸の前にあって、こんな状態でも僕を守ろうとしている。
僕がしっかりしていれば、古参の高位に舐められることもなかった。今手川や海豹人が激に苦しめられることもなかった。
潟さんも怪我をせずに済んだ。
今まで誰も僕を責めなかったのは、皆の優しさだ。それが当たり前になっていることが恐ろしい。
周りに優しくされて、それに気づかないなんて……しかもその裏で誰かが傷ついているなんて、最低だ。
「ごめん。その通りだ」
「え?」
言い争う声が止まった。
潟さんを驚かせないように腕にそっと触れた。腕を下ろしてもらって、今度は僕が前に出る。あまり離れると潟さんが心配するので、一歩だけだ。
「添さん。ハッキリ言ってくれてありがとう。どんな罵りも受けるよ」
「え、え?」
鮭のような大剣を両手で挟んでいる。僕が間合いを詰めても、振り上げようとはしなかった。
その代わりに不審者を見るような目をしている。
「僕が至らないのは事実だよ。でも出来れば攻撃はしないで貰えるかな? お互いのために。どうしてもダメだと言うなら、一発だけ殴っていいから」
僕に攻撃をすれば、多分添さんの方が大変な目に遭ってしまう。だから一発だけ。
土精が僕の悪口を言っただけで、あんな目にあった。一発でもどうなるか、正直分からない。だからどれほど効果があるのか分からないけど、僕の了承付きだとせめてもの宣言をする。
了承付きで殴られるというのも、何か嫌だけど……。
「添……言ったでしょう。雫さまはこういうお方だと」
潟さんの声は呆れと笑いが半分ずつ入っていた。塩湖の波の壁は上陸する前に崩れ落ちた。
潟さんの怒りが少し収まったらしい。怪我が酷くなる前に終わって良かった。
潟さんが女の子に近寄って、大剣を取り上げる。潟さんが大剣を持つと、花茨城で戦った姿が鮮明に浮かんできた。
潟さんの大剣をこの女の子が持ち出していたようだ。女の子の方も大人しく剣を渡して、余った手で潟さんの袖を掴んだ。
潟さんは反対の手で女の子の背に手を当てた。
「雫さま。どうかご無礼をお許しください。これは私の妻、添です」




