220話 塩湖までの道
王館を発って、まっすぐ西の海豹人を訪ねた。すっかり夜になってしまった。
一般的には訪問するのに適さない時間帯だ。でも、ここの海豹人は夜行性だというので、この時間を狙ってきた。
ただ、潟さんの手紙を解釈したベルさまによると、ここの海豹人も激に襲われていたようだ。
その苦い経験から、僕も不審者扱いされるかもしれない。沾北海のように……いや、もっとひどく威嚇されるかもしれない。覚悟していた方が良いだろう。
飛行を続けている内に、上空から海豹人の群れを見つけた。夜目にも分かる白い大群だ。沾北海の群れよりの二倍くらいの数はいそうだ。
ちょうど狩りの時間だったようだ。浅瀬が大盛り上がりだった。まるで餌を投げられた鯉が我先にと集まっているようた。これだけ離れていても活気がある。
闇夜の黒い海で白い体は狩りに向いていない気がする。目立ってしまって獲物に逃げられそうだ。
そう思いながらしばらく観察していると、その考えが間違っていたことに気づかされた。
黒い海が時々白く見えることがある。海豹人はその瞬間に獲物を捕らえていた。
何頭かが激しく動いて波を立て、飛沫を上げている。そうすることで無数の泡が生まれ、白い体をうまく隠しているようだ。
激しい水音が夜の海に響き渡る。更にそれに負けない咆哮が飛び交っている。
何とも異様な光景だった。でも彼らにとってこれは普通のことなのだろう。
彼らの食事を邪魔したくない。
……決して海豹人の迫力に圧されたからではない。
「また後で来るからね」
雲に乗ったまま、下に向かって声をかけておく。聞こえるはずはないけど別に構わない。
雲の向きを変えようとすると、下の方でキラッと二つの明かりが主張した。
……目だ。
今日は細い月が出ている。波が反射するのは弱い光だ。今の光はもっと強かった。
夜目では岩だとばかり思っていたところに目があった。あの巨体から判断して恐らく長だろう。
いつから僕の存在に気づいていたのか。
もしかして今の声が聞こえたのか。
まさかとは思うけど、なかなか油断できない相手だ。
もっとも、長というくらいだから、群れを守るために神経を尖らせているに違いない。
沾北海の永も、いずれこういう鋭さを身につけるのかもしれない。うっかり名付け親になったせいで、成長が気になってしまう。
それにしても……帰りにくくなってしまった。長と思われる海豹人はずっとこっちを見ている。かといって今から降りていくのも躊躇われる。
軽く挨拶をして帰ろう。
「寒波の気 命じる者は 水太子 幸を願い 真心を送る 『細雪』」
チラチラと雪が舞い降りる。少ない量だから積もることはない。
細雪は普段あまり使わない理術だ。日常生活でも戦闘でも使わない。何の役に立つのだろうと思っていたこともあった。
別れを惜しんだり、見送ったりするときに使うことがほとんどらしい。言葉では足りない気持ちを補うにはちょうど良いという。
普段使わないなら覚えなくても良いと思ったこともあった。もっと率直にベルさまの役に立つような理術を先に覚えたいと思っていた。
今、初めて使うことになって、自分の浅はかさが身にしみた。その時使わなくても、知識はいつか役に立つと言って、全部教えてくれた先生に感謝だ。
二つの光が星のように瞬いて、長の目が伏せられた。
気持ちは伝わっただろう。
心置きなくその場を後にした。
続けて潟さんに所へ向かう。ここからそれほど遠くはない。
ただ、夜行性の海豹人ならともかく、こんな夜中に訪問するつもりはない。近くまで行って場所を確認したら、朝まで待つつもりだ。
潟さんの塩湖は海岸から見える場所にあると、ベルさまから聞いてきた。
だけど、暗くてよく見えない。目に頼っていると陸と海との境を見失ってしまう。海から理力を感じ取れるところまで高度を下げて、水の気配を辿っていった。
陸の方から海に似た理力を感じ取れれば、塩湖があるはずだ。位置から考えると、この海と潟さんの塩湖は昔は繋がっていたに違いない。
同じ海を祖先とするなら理力の質も同じはず。
神経を研ぎ澄ませてみると、予想通り陸地から海の気配がした。
その方向に雲を飛ばす。海から離れていくのに風が湿り気を帯びてくる。大きな水辺がある証拠だ。
「潟さん。大丈夫かな」
誰も聞いていないのに、思っていることが声に出てしまった。
その直後、高い嘶きが返ってきた。まるで返事をされたみたいだったけど、そんな呑気な雰囲気ではなかった。
左後方から、馬の大群が押し寄せてきた。白っぽい体は海豹人のように夜でも良く見える。徐々に横に広がって僕の後ろを全面的に塞いだ。
馬にも海豹人みたいに領域があるのか?
だとしたら大層ご立腹だろう。馬群が綺麗に型を整え始めた。左右両端の馬が僕の雲の真横まで来ている。
わざと速度を落とし、完全に馬群に向き直った。声を張り上げて、疚しいことはないと宣言する。
「王太子・淼が塩湖へ向かう途中だ! 領域を侵すつもりはない! 追跡は不要だ」
馬群が止まった。代わりに嘶きが飛び交っている。海豹人の鳴き声も凄かったけど、甲高い馬の嘶きはまた違った威圧感があった。
真ん中にいた一頭が前に進み出てきた。
堂々としていて、ゆっくりした足取りだ。恐らく群れの長か何かだろう。話に応じる気はあるようだ。
僕も雲から下りて馬と向き合う。馬と同じ速度で一歩一歩距離を詰めた。
近くまで来ると、馬の姿が良く見えるようになった。白だと思っていた体は灰色だ。今は薄い灰色に見えるけど、明るかったら深い色かもしれない。
いつでも斬りかかれる距離まで近づく。すると馬の体が縮みだした。体積が急に減って、人型が現れた。
前髪を派手に持ち上げたやんちゃそうな青年だ。最初の掴みが肝心だ。一言目を何にしようか。
「淼?」
「え? あぁ、うん」
最初の発言を悩んでいる間に、向こうから声をかけられてしまった。
「証明するものはありやすか?」
なかなか警戒心が強い。結構なことだ。
徽章を掲げながら真名を名乗る。
「真名は雫だ。君は?」
続けて相手の名を尋ねた。人型になれるのだから真名がないとは言わせない。
僕の徽章が見えているかどうかは別として、真名と徽章があれば身元の証明は十分だろう。
「う……」
「う?」
相手が大きく息を吸ってブルブルと小刻みに震えだした。
急に体調が悪くなったのか?
「……ぅうぉおっしゃーーーー! 見つけたーー!!! お前ら!! 遂に雫の兄貴をお迎えしたぞーー!!」
そう叫ぶと馬群があっという間に人型になった。野太い歓声が上がっている。
「な、何?」
「雫の兄貴! 俺は馬群の若頭・馮っす! お待ちしてやした!!」
馬群→群馬県から付けました




