208話 水理王と伯位の水太子・上
「えーと、この子、昇格ですか?」
机の下の海豹人へ声をかける。床にペタッとへばりついて出てくる気配がない。小刻みにプルプル震えている。
「王太子・雫を伯位に昇格する」
ベルさまはそう言いながら、筆記具を忙しく動かしている。ここから見る限りでは字が雑だ。ベルさまらしくない……もはや殴り書きだ。
書き終えるとパンッと両端を持って一気にインクを乾かした。それを勢いよくクルクルっと丸めると小さい巻物になった。
ベルさまが僕に巻物を差し出してきた。慌てて受け取りに行くと指が触れた瞬間、変化が起こった。
今まで気づかなかったけど、体の周りで何かがモヤモヤと停滞していたようだ。そのモヤモヤがスッと取れた。いや、取れたというよりも、堰を切ったように流れ出したと表現の方が良いかもしれない。
モヤモヤが体の中に取り込まれて、勢いよく流れている。体が楽になって疲れが消えていった。
それと同時に、魂に伯位が刻まれていくのを感じた。
最高位である伯位だ。
信じられない。最低位だった僕が何故こんな高い所にいるのだろう。何だか首の後ろがむず痒い。
「あと、その子は海豹人だね。昇格は不要だ」
体の中で伯位の理力が目まぐるしく流れている。決して不快なものではない。けど、自分の変化に気を取られていて、ベルさまの言うことを理解できなかった。
「それはどういう……」
海豹人のキーッという鳴き声に会話を止められる。もう一度机の下を覗くと、海豹が仰向けで引っくり返っていた。泡を吹いている。
「早く部屋から出すか、隔離した方がいい。海豹人では私の理力に……いや、王館では今の雫の理力にも耐えられないだろう」
海豹人へ水の箱を施す。念のため二重にかけた。相変わらず仰向けのままだけど、多分大丈夫だろう。
澄さんの時と同じだ。
僕はあのとき低位精霊が理王の理力に耐えられないと学んだはず。なのに、不注意にもこの子を連れてきてしまった。可哀想なことをしてしまった。
「海豹人は基本、季位だ。境界を守る彼らにとって名も位も意味のないものだからね」
「ベルさま、実は、この子……」
貴燈での出来事を報告しなければならない。けど、ベルさまは片手を上げて僕の言葉を遮った。体を捻って反対の手で後ろの棚から水晶を取り出す。それを机の上に転がして、コンコンと爪の先で軽く弾いた。
「悪いけど一部始終を見させて貰った。その子は後で該当する地域を探すよ。もしかしたら漣たちが登城しないのと関係あるかもしれない」
流石ベルさまだ。仕事が速い。それにしても引っ掛かる言葉が……。
「やっぱり漣先生に何かあったんですか?」
血の気が引くのが分かった。
先生や潟さんまで魄失にされてしまったとか……だとしたら助けにいかないと!
でも待てよ。激は僕で何とかなったんだから、あの二人なら絶対返り討ちにしているはずだ。
「いや、そこまで深刻ではないと思うよ。あまり気にしないで良い。ただ、登城要請を三度も無視しているからね。本格的に事件か事故かと思っていたところだけど……」
ベルさまの様子は深刻そうなものではなかった。何だかんだ言いながら漣先生を信頼している証拠だ。
一瞬でも二人が激に負けたのを想像してしまった自分を殴りたい。
「何か分かったら伝えるよ。必要なら行ってもらうことになるかも」
「分かりました」
返事をしつつ、内心は大声で謝罪したい気持ちだった。それを誤魔化すために、何気なく首の後ろに手を置く。さっきからむず痒いと思っていたけど、理由が分かった。
髪が少し伸びている。後ろだけ他より少し長い。首の後ろで毛束が掴めるほどだ。自分の髪にくすぐられていたとは予想外だった。
「ところで、魄失相手に少し心配だったけど問題なかったね」
「あ、そういえば、一部始終見てたって……」
どこからどこまで?
僕が激を袋叩きにした辺りも見られていたのだろうか。
無抵抗な相手を一方的に殴り倒した……なんて醜聞だ。
「煬の姪と仲が良くて喜ばしいね。ずいぶん気に入られていたようだけど」
え、そっち?
てっきり怒られると思っていたのに。
もしかして沸ちゃんが王太子に対する礼を取らなかったから、それで怒ってるのかな。
「沸ちゃんは数少ない友達です。他人行儀に応じられるのが嫌で、僕が今まで通り接して欲しいって言ったんです」
言外に彼女は悪くないという意味を込めた。伝わらなかったのか、ベルさまは一瞬ポカンとした顔をした。
けれどすぐに苦笑する。その苦笑の中に諦めと呆れの心がわずかに入っていた。
「まぁ冗談はさておき、よく戻った。件の水精たちは火の王館で預かっていると火理から連絡が来ている。私が処分を下すのはその後だね」
冗談……ってどこから?
「詳しいことは尋問してからだけど、間違いないだろう。でもあの様子を見ると激に脅されていたと言いそうだな」
「皆、激の顔色を窺っていました」
だからと言って僕たちを襲った事実は変わらない。けど、煬さんが僕を襲ったように何か事情があるのかも知れない。ここは慎重に調べを進める必要がある。
「私だって無闇に処分したくない。流没闘争の後処理で高位精霊がかなり減っているからね」
ベルさまが額に手を置いた。物理的にというよりも、心理的に頭の痛い問題が出てきてしまった。
「今、彼らを降格させれば、他の高位の負担が増えるってことですね」
傘下の低位精霊が増えることになる。それを喜ぶ精霊ばかりではない。自分が守護しなくてはならない精霊が増えるということだ。手が足りないところだってあるだろう。
「まぁね。でも何人かは降格せざるを得ない。あとは減域で済ませたい。激に関しては本体と名の没収を検討中だよ」
「激の身内が黙ってないのでは?」
激は九、十一、十三代の水理王の一族だと言っていた。もしそれが本当なら、親戚筋に高位が多いはずだ。
「雫。その数字に関して、何か思うところは?」
「え?」
九……十一……十三……。ひとつ飛ばしだ。これに何か意味があるのか分からない。
「私は三十三代目だ。その私を理王にした漣は三十一代目だよ」
ここにも一代の開きがある。……ということは。
「自分の一族を次代の理王に?」
理王は引退するときに王太子を指名する理だ。それを利用して自分の子や孫、もしくは甥姪を指名していたとしたら……。
「憶測に過ぎないけど、そう言われている。十五代目の候補は『王太子の試練』を越えられなかったというのは公然の秘密だ」
公然の秘密……つまり皆、知っている。
「それでも元理王の一族だからね。代々王館で働いていたよ。私が追い出すまではね」
ベルさまが自虐気味に口角を上げた。ベルさまは流没闘争が沈静化したときに、王館で働いていた精霊を全員追い出したそうだ。
それから僕が来るまで二百年、ベルさまはずっとひとりで過ごしていた。
勿論、時には謁見があったり、焱さんたちが訪ねてくることもあっただろう。でも基本的には終日ひとりきりだ。
寝ることも食べることもせず、二百年という長いときを、ベルさまはたったひとりでどうやって過ごしていたのだろう。
それを考えると、胸が締め付けられそうになる。
長かったので二話に分けました。
続きは明日、更新します。
一滴太子編は次話で終了です。




