201話 小さな魄失
棚引く雲が影を地に落としている。ゆったりとした流れに対し、僕は雲を勢い良く飛ばす。
沸ちゃんや滾さんの無事を早く確認したい。何かあったらどうしようという気持ちと、きっと大丈夫だという気持ちがせめぎあっている。
静かに佇む貴燈山が見えてくるとようやく少しホッとした。
貴燈山へ来るのは久しぶりだ。いつぶりだろう。ついつい懐かしさを覚えてしまう。でも友だちの家に遊びに来たわけではない。うっかり気を緩めてしまった。
沸ちゃんや滾さんと、すぐ会いたいところだけど、まずは山を一回りしてみた。雲に乗ったままなので全体の様子が良く見える。
以前のように山登りをする必要がなくなった。お陰で効率が良い。でもその分、細かいところは気づきにくくなっているはずだ。小さな変化を見逃さないようにしなければならない。
火口から出る煙が少なくなっているのは仕方がない。この山は煬さんが活動していない内は休火山だ。温泉の維持が大変だと、昔、沸ちゃんが言っていた。
ある程度見回りを終え、雲を降ろしていく。途中で熔さんの墓石も確認した。特に荒らされている様子はなく、白い花が供えてあった。
黒い岩山に白い花は一際目を惹き、上空からでも分かるほど存在を主張していた。
「よいしょっ、と」
山の中腹ほどの開けた場所で着地する。確かこの辺りに中へ入れる穴があったはずだ。記憶を辿ってあちこち見たり、触ったりしてみる。
一度しか訪れたことがないから自信がない。けど、岩の陰になって見えにくい所にようやく入り口を見つけた。
「お邪魔しまーす」
黙って入るのも申し訳ないので、控えめに挨拶をして中へ入る。その瞬間、左右の壁に火が灯り、暗い内部が一気に明るくなった。
光量の変化に目が付いていけない。目が慣れるまで動かない方が良さそうだ。
「沸ちゃーん、僕だよ! いるー?」
山に響くように大声を出した。僕の声にエコーがかかり、岩がわんわんと唸っている。
沸ちゃんからの返事はない。実は先触れを出していない。先触れの宛先は管理する高位精霊だ。しかし煬さんは休眠中。
先触れのほとんどをお願いしている漕さんも、今回は今指川へ行ってしまった
「ギルさーーん!」
そうこうする内に目が慣れてきた。廊下のような溶岩壁はまっすぐに伸びていて、行き先は一ヶ所しかない。
これでは道に迷うはずがない。とりあえず奥へ進んでみる。
いつ魄失に出会っても良いように、腰の剣に手を置いた。
魄失を物理的に倒そうとすると、通常の氷刀や水刀では切れにくいらしい。切れないことはないけれど、相当な労力を費やすそうだ。
一方、王太子が扱う専用武器は魄失退治に特化しているらしい。焱さんが持っている火焔之矢が良い例だ。
ちなみに僕が持っているのは水太子専用武器ではない。僕は金理王さまから送られた『僕』専用の武器だ。
水太子専用は壊れたままだとベルさまが言っていた。これもきっと流没闘争が絡んでいるのだろう。それ以上、深くは尋ねなかった。
僕の玉鋼之剣でも魄失を倒せると言うので、ありがたく帯刀させてもらっている。
時々、カチャンとなる剣の音が今は頼もしく思えた。
「ギルさーん! 雫です! いませんかー?」
滾さんも呼んでみる。案の定、返事がない。
もしかしたら、ふたりとも魄失にやられてしまったとか……。
最悪の想像をしてしまって鳥肌が立ってしまった。多分僕の目は泳いでいるだろう。その視界にクリーム色が映る。大きな岩に隠れてこちらを覗いている。
「沸ちゃ……」
「しーっ! 大きな声出さないで!」
沸ちゃんは顔を出して、人差し指を口元に立てた。そのせいで、無事だったんだという言葉は最後まで言えなかった。
沸ちゃんに手招きされる。口を手で押さえたまま、そそくさと近寄った。
「沸ちゃん、どうしたの?」
声を潜めて沸ちゃんに尋ねる。沸ちゃんは相変わらず片目を隠している。でも以前はもっとしっかり覆っている感じだった。今は前髪が薄くなって少し透けて見えている。
「隠れん坊してるのよ」
「カクレンボ?」
あぁ、なるほど。それで大きな声出すなって言ったのか。
「ギルさんと?」
「そんなわけないでしょ!」
大きな声を出すなと言った沸ちゃんの声が響く。沸ちゃんは慌てて自分の口を両手で抑えた。
「ギルとは仲は良いし、小さい頃はやったけど最近はやらないわ」
沸ちゃんがちょっと言い訳みたいにヒソヒソと述べる。
まぁ確かに。体の大きい滾さんにとって隠れん坊は不利だ。探す方にしても狭いところは探せないだろう。
『沸ちャん、ミっーけ! ……あレ、知ラナい精霊がいル』
頭の上から子どもの声が降ってきた。岩の上に手をかけて、僕たちを覗き込んでいる。全く気配を感じなかった。
「あらー、見つかっちゃったわー」
沸ちゃんは一瞬、あちゃーという顔をした。けどすぐに笑顔になって手を上へ伸ばす。小さな手を掴んで岩の間に引きずりこんだ。そのまま頭を胸に抱えて撫で回している。
一見するとほのぼのした光景だけど、子どもに違和感がある。手と頭まではあるけど、下半身はぼやけている。かと思えばはっきり二本足があったり、瞬きしている間に三本になったりと変化が忙しい。
このはっきりしない実体には心当たりがある。
「魄失?」
口をついて出たのは嫌な単語だった。沸ちゃんもビクッと肩を震わせている。
誰にとっても魄失が恐ろしいものであることは変わらないはずだ。特に沸ちゃんにとっては、家族が痛い目に会わされているから尚のことだ。
「えっと、違うの。このこのこの子は、ほらあれよ」
桀さんみたいな喋り方になっていることは気づいていないだろう。僕から子どもを隠すように背中に庇う。
「と、ところで雫は何の用?」
動揺を隠さないまま沸ちゃんが僕を責めるような言い方をする。
「視察に来たんだよ」
魄失がその場から動かないことを確認しながら、沸ちゃんに返事をする。子どもとはいえ魄失と言うべきか、魄失でも子どもと言うべきか。
「視察? 何で雫が……」
沸ちゃんはキョトンとしている。それから僕の格好を見て、顔を見て、胸の紋章を見て、もう一度僕の顔を見て、自分の顔色を変えた。
「お、おぅあぉあうおぅお王、王たたたたたた」
「沸ちゃん、落ち着いて」
放っておいたら舌を噛みそうだ。肩に手を置いて落ち着かせようとしたら、顔を真っ赤にしてしまった。逆効果だったかもしれない。
「それから魄失が出たかもって聞いたから、ふたりの無事を確かめようと思って」
沸ちゃんは口を大きく開けて、何か言おうとしたようだ。でも声をあげる前に咳き込んでしまう。
『沸チャん、大丈夫ゥ?』
魄失が沸ちゃんの背中を擦っている。
僕の中の魄失の定義が崩れそうだ。魄失ってもっと攻撃的で、ぞっとするものだった記憶がある。先生たちからもそう教わった。
なのにこの子どもからは背筋が寒くなるようなものは感じない。でも精霊かと言われると微妙だ。
こんなに近くにいるのに理力を全く感じないのだから。
「し、雫、王太子になったの? いつから?
なんで言ってくれなかったの? あっ……いえ、違います。そんなつもりはないんです。失礼しました。ごめんなさい」
沸ちゃんがひとりで喋っている。僕は何を謝られているのだろう。




