199話 反王太子派の嘆願
所変わって王館の執務室。
ベルさまの前に立つと若干寒い。お帰りと言われたけど、ものすごい圧が感じられる。ベルさまの後ろにある本棚が霜をふいていた。
お怒りというよりも機嫌が悪い。足元がスースーして寒気がしてきた。
「あのベルさま、報告をしてもいいですか?」
「報告ね。女の子を連れ込んだ報告?」
ピシッという音が大きく響いた。ベルさまにも聞こえただろう。机の上にあるインクの壺が凍っていた。
やっぱり僕が言う前に分かってしまった。王館に入った時点で理王には分かるのだろう。
別に隠そうとか誤魔化そうとか思っていたわけではない。でも澄さんをここに置いてもらうために、どうしても僕が説得をしなければならない。
ちゃんと順序立てて説明したかった。これではまるで僕が気に入った女の子を侍らせているみたいだ。
「つ、連れ込んだわけではなくて、その救済というか」
かくかくしかじかとベルさまに状況と経緯を説明する。
ベルさまはペンを紙に滑らせている。耳は僕の話に向いていると思う。けど、ペン先のインクが凍りついてパラパラと乾いた音を立てていた。
「で、その子は今どこに?」
「今は、泥と汢に預けてきました」
王館内に入れてしまったとは言え、低位には謁見が許されない。直接ベルさまに会わせることはできないのだ。
かといって独りで放置しておくわけにもいかない。実際は謁見などがない限り、僕やベルさま以外の水精と会うことはないだろう。
「で、その子どうするの?」
「どうしたら良いかベルさまのご指示を仰ぎたくて」
ドンッという音を立ててベルさまが判を押した。理力の流れを読まなくても、イライラしているのが分かる。変な汗が背中を流れていった。
ベルさまのため息が一際長く伸びた。僕が懸念事項を増やしてしまっているのは明らかだ。
「雫、これを見てごらん」
不機嫌な顔をしたままベルさまが紙を渡してきた。完成したと思われるその書類はびっしりと字で埋め尽くされている。
「これは……?」
「王太子廃位の嘆願書だよ」
うわ……。
もうすでにベルさまのところにまで手が回っているのか。今手川が言ってた反王太子派が出してきたのだろう。
えーっと、なになに……
王太子の悪行についての報告並びに嘆願。
視察と称して居座ること半日。
その上食料を食い荒らすこと七日分。
子らへの悪態九回。
自身への暴行十数回。
まだまだ続いている。けど途中で読むのが嫌になってきた。
……ナニコレ。
「それは『視察で歓迎してくれた』更に『なかなか帰してもらえなかった』所だよ」
ベルさまに言われて嘆願者の名を見る。確かに見覚えがある。視察に行くようになって最初の方に行った所だ。
早く帰って欲しがる所が多い中、歓迎してくれる……いや、してくれたと思っていた。
でもこれも向こうの思惑通りだったわけだ。まんまと嵌まってしまって、歓迎してくれたなどど調子に乗ってしまった。
恥ずかしい。王太子になって、やっと雨伯や母上に顔向けできるようになったと思ったのに。
「状況が分かった?」
ベルさまの役に立つどころか、迷惑をかけている。仕事を増やして悩ませてしまっている。
恥ずかしさから顔を下げていた。だからベルさまが手を出していたのに気づかなかった。書類を返せと手が招いている。
差し出した書類をちょっとだけ強めに僕から奪った。それを既決事項の書箱にハラリと落とす。
「雫が水精を助けたいと思うのは良い。王太子としての当然の責務だ」
ベルさまはもう次の書類を取り出していた。未処理の書類の山がチラッと見えた。あれが全部、僕の廃位嘆願だったらどうしよう。
「でもね、それを快く思っていない者が多い。雫が王太子に就くことを反対していた者たちは、雫が初代理王の子だということで、渋々了承した。何故だか分かる?」
ベルさまがちょっとだけ優しく僕に尋ねる。僕が落ち込む姿を見て気を使わせてしまったかもしれない。
だめだ。ちゃんとシャキッとしないと。これ以上ベルさまに迷惑をかけられない。
「初代理王の顔を立てて……ですか?」
初代理王の顔なんて知らないから、立てる必要もないと思うけど。
ちなみに僕も父だという理王の顔を知らない。それどころか記録を見ても名前すら分からなかった。
「いや違う。初代理王の子ならば、『恐ろしい』というのが本音だ。強大な理力や技術を持って手腕を発揮するに違いない、とね」
「そんな……」
僕はやっと高位精霊になったというのに、その評価はおかしい。確かに強力な理力は遺伝するっていうけど、僕は兄弟姉妹が多いから、理力は分散されてひとりひとりは弱くなっている。
「それと、もうひとつ。初代理王の子が王太子になれば、傍若無人な当代理王を抑えられるという期待もあった」
「なっ……ベルさまを抑えるなんて、僕、そんなことしません!」
思わずベルさまの机の端を叩いてしまった。振動で整理された書類の山が少し崩れた。ベルさまがそれをそっと直す。
「分かってるよ。ただ私に逆らえないからそれを抑える力を持った者だと期待もあったわけだ。そういう思惑がある輩からすれば、雫は彼らの期待を大いに裏切ったことになる」
ベルさまに勝てる者なんていないと思う。理王になる前はどうだったか知らないけど、ベルさまだって大精霊の子だ。昔から強かったに違いない。
それに理王と王太子の仕事をこなしていた時だって理力が削られている感じはしなかった。王太子の業務を離れて、純粋な理王になってから益々理力が強まった気がする。
こんなベルさまに敵う精霊がいるとは思えない。
「いずれにせよ、雫が何らかの行動をとれば叩かれる要因になる。善かれと思ってしたことでも相手にとっては叩くための最高の材料になるわけだよ」
「……はい」
詰まっていた水路を片付けただけだって文句を言われた。その時に学んだはずだったのに。
「今手・今指父娘のことは、軽はずみとは言わないよ。雫のことだから断ろうとしたんだろう。でも少し迂闊だったね」
ベルさまは怒るというよりも諭すように語りかけてくる。ベルさまに怒られたのは後にも先にも一度だけだ。あれは僕が完全に悪い。勝手に王館から出てしまったから。
「嘆願は……どうなさるおつもりですか?」
多分一件だけではないだろう。あまりに多いようならベルさまだって受け入れるって言うかもしれない。
「無視」
あまりにピシッと言い放ったので、面食らってしまう。
「だ、大丈夫なんですか? そのクレームとか……」
「ハッ。どんとこいだね」
頼もしい。
ベルさまにしては品を欠いて鼻で笑った。僕も笑い飛ばせるような男になりたい。
「雫が王太子になったということはこの世の理に組み込まれている。変更は不可能だ。そんなことも分からない奴らの言葉に耳を傾ける必要はないね」
ベルさまはギシッと椅子を軋ませた。本来ならちょっとやそっとでは揺らがない丈夫な椅子だ。ベルさまのさっきの冷気によって傷んだのかもしれない。暇を見て桀さんに見てもらおう。
「でも、雫。今後同じようなことをしないように、その子をここへ連れてきてごらん」
「へ? 澄さんをですか?」
いきなり話題が進んで付いていけない。澄さんを連れ帰ったということを、ベルさまは面白く思っていなかったはずだ。
いったい何故急に会うなんて言い出したのだろう。
「低位精霊が何故、王館で働けないのか。何故、謁見が許されないのか。教えてあげるよ」




