177話 雲行き
深夜から雨が降っていた。空が白み始めた頃、強い雨に変わったので、雨伯が登城しているのだと思った。
眠る必要がなくなってから一日の時間がとても長くなった。今までいかに睡眠に時間を当てていたか、よく分かった。
今までだったら朝食をとっていたはずの時間に、雨伯と対面できた。その頃には、窓に叩きつけるほどの豪雨になっていた。
「流石、我輩の養子である! 似合っておるぞー!」
今日も養父は絶好調だ。通りで雨足が強いわけだ。僕の装束を引っ張ったり、くるまったりしてとても楽しそうだ。
「ありがとうございます。養父上」
今日は間違っても雨伯と呼んではいけない。あくまでも僕の養父として来てくれているのだから。
雨伯に図々しいと思われないか心配だったけど、満足そうな笑みでほっとした。
それどころか僕の手を取ってくるくる回り出した。雨伯は楽しそうだけど、僕は頭に乗せた冠が重くてフラフラしている。
「おじーさま、衣装が崩れる前に離れてやれよ。着付けに時間かかってんだからよ」
焱さんが雨伯の両肩に手を置いて僕から引き離した。雨伯は焱さんにされるがまま、大人しく僕の裾を放した。
「そうであるな。熀の時は参列出来なかったので、つい調子に乗ってしまったのである」
反省の言葉を述べる割にふんぞり返っている。
そっか。焱さんは雨伯の孫だけど、火精だから参列出来なかったんだ。
「さて、では我輩はそろそろ行くのである。来賓席の一番近いところを御上が用意してくれたのだ。手を振っても良いぞ」
それは恥ずかしい。そんな僕の気持ちを他所に雨伯は意気揚々と僕の部屋から去っていった。
「全くおじーさまは……親父がいないと止まらねぇんだから」
雨伯が開けたまま出ていった扉を焱さんが閉めてくれた。
「雷伯は一緒じゃないんだね。あ、義兄上って言った方が良いのかな」
お兄ちゃんって呼んでも良いとは言われたけど、それは流石に抵抗がある。
「どっちでも良いんじゃねぇ? 今日は来ねえし。なんなら俺も雫のこと義叔父上って呼んでやろうか?」
鳥肌が立ってしまった。今の焱さんのニヤニヤ顔は一生忘れないと思う。
「や、それはちょっと」
「プッ、ハハハ」
我慢しきれなくなったのか、焱さんが吹き出した。つられて僕も笑ってしまう。
でも笑う度に頭が揺れて、バランスを崩しそうだった。
「っと、危ねぇ。少しは緊張がとけたか?」
焱さんが笑うのをやめて僕の頭を支えてくれた。焱さんもこの重さは経験しているから、よく知っているんだろう。
「うん、ありがと」
耳の横をジャラッと冷たい金属が掠めていった。
金理王さまから就任祝いに贈られた新しい鎏だ。一昨日、鈿くんが届けてくれた物だ。
勝手に市で取引してしまったので、怒られることは覚悟していた。でも鈿くんによると、金理王さまは全く気にしていないらしい。
そういえば鑫さま……じゃなくて、鑫さんからも特に何も言われなかった。
「これ重いね」
ブラブラと揺れる鎏を手で押さえる。冠を被ったままだと見えないけど、何となく場所は分かる。
「雫は仲位だから鎏は一本だ。俺は伯位だから二本。雫の方が少し軽いんだぜ。我慢しろ」
王太子は仲位か伯位……要するに高位精霊がなれるものだ。とはいえ、ほとんどの場合、伯位が勤めるらしい。
「仲位でも王太子は王太子だ。伯位に舐められないようにしろよ」
実際、仲位から伯位に指示はしづらい。侮られる未来しか見えなくなってきた。
仲位になってすぐ王太子になった桀さんは、うまくやっているんだろうか。あとで聞きに行ってみよう。
「雫、出来たかな?」
ベルさまが入ってきた。焱さんが場所を開けて通り道を開く。こういうところは少しさわったかもしれない。
「うん。いいね。どこに出しても恥ずかしくない」
ベルさまが僕に一回りするよう指示する。背中も見せろと言うことらしい。
「流石に木理は良い仕事をする。焱、見た?」
「見ましたよ。竹の繊維を織り込んで土への防御を上げ、その上に絹糸で絢爛な刺繍をしてあります。目を見張りますね」
僕を観賞するベルさまはウキウキしているように感じた。焱さんに同意を求める様子は少しだけ子供っぽさを感じた。
「しかも糸の染色に七竈の実を使っているよ。火鼠の衣には及ばないけど、防火力も高い。この短時間でよくこれ程のものを仕上げたな。また徹夜したのか?」
今すぐ全部脱いでしまいたい。衣装が余計に重く感じる。でもそんなことをしたら失礼だ。むずむずする気持ちを必死に抑える。携わってくれた皆に感謝しなければならない。
「さて、まぁ観賞はそれくらいにして、そろそろ時間だ。お披露目と行こうか」
ベルさまが向きを変えて部屋を出ようとする。焱さんが自然と道をあけた。
「おう、雫。がんばれよ。……いや、待て、あまり頑張るな。どうせ大勢の高位精霊の目に晒されるだけだ。リラックスしていけよ」
そういうのやめて欲しい。焱さんは楽しそうだけど、僕は今の言葉で緊張感が帰ってきた。
それに焱さんは火精だから、僕の儀には参加しない。ちょっとだけ心細くなった。
「行ってくるね」
ベルさまを追って部屋を出る。すでにかなり距離が空いてしまったベルさまを小走りで追いかける。
「雫、ここからは淼と呼ばせてもらう。私のことも御上と呼ぶように。いいね」
「はい、御上」
本格的に緊張してきた。
でも大丈夫。今日までに何度も練習した。焱さんとリハーサルもしたし、桀さんと鑫さんにも付き合ってもらっておかしなところがないか確認してもらった。
大丈夫。うまくいく。
「では」
ベルさまが扉の前に立つと謁見の間が開かれた。勝手に開いたと思ったら、後ろからふたりの精霊が開けていたようだ。
扉が開いた瞬間、目に飛び込んできたのは黒い海だった。
もちろん本当に海があるわけではない。密集した精霊たちが皆、一様に黒い衣装に身を包んでいるのだ。
これのどこが簡略化なんだろう。
「一同道を空けよ!」
謁見の間を突き抜けるような声が耳に入る。すると黒い海が一気に左右へ分かれ、僕たちの前に道が現れた。
両側を黒い精霊たちに挟まれて、異様な雰囲気を作り出している。この状態で玉座近くまで昇らなければならない。
「大丈夫。行くよ」
ベルさまがほんの少しだけ振り向いて、短く告げる。顔は見えなかったけど、僕のことを気にしてくれているのが分かって、嬉しさと同時に申し訳なさを覚えた。
ベルさまに遅れないよう……とは言っても、二歩から三歩下がって続く。
いつの間にか僕の背の方が高くなってしまったので、気を抜くと追い付いてしまいそうだ。
玉座はまだ遠い。左右の精霊たちはもう黒い壁だと思うことにした。見慣れた王館の黒い壁だ。その廊下をただまっすぐ進んでいくのみだ。
そのはずだったのに。
「……成り上がりが」
悪意に満ちた囁きが聞こえた。




