170話 二つの牽引
「土では汚れない」
坟さんにそう教わった。坟さんに心から感謝を述べたい。
「土は金を守り、草木を育んで、活きすぎた水を抑えてくれる。そして火の力で浄化されてる。土で汚れるわけがない」
免は右肩の少し下を押さえている。僕が切りつけたところだ。そこから伸びるはずの腕は僕の足下に落ちている。
「賢者の石を吸ったのに、よく平気で立っていますね」
玉鋼を免に向けて構える。左足を下げるついでに免の腕を軽く蹴飛ばした。ちょっと残酷なことをしていると自分でも思う。
免を警戒しながら口の中に意識を働かせる。舌を動かして小さな固まりをプッと吐き出した。
「賢者の石は難溶性だ。僕たち水精は摂取しても効くのは短時間で、体内で回収し、排出できる」
それを思い出したのはついさっき……坟さんの言葉を思い出した直後だけど、それを伝える必要はない。
以前、先代木理王さまの薬として賢者の石を使ったことがあった。その時に先生が教えてくれたのだ。木精には効くけど、水精には効果が薄く、効いても数分から数時間。量を増やしてもその効果は比例しない。
「それを踏まえて粉末にしてから水に溶いたのですが駄目でしたか」
免はやれやれというように首を竦めた。腕を落としても大してダメージは受けていないようだ。
「また予定が狂いました。ここで貴方の理力を奪う。もしくは貴方を連れて帰る。どちらかを達成したかったのですが」
免が右肩から手を外した。血は一滴も出ておらず、免自身も苦悶の表情は見えなかった。
「まぁいいでしょう。むしろ貴方が予想以上に強かったことを喜ばなくては。その方が理力量が多い」
余裕の免に予告せずに突進する。玉鋼はすでに抜いてある。免にたどり着く直前で剣を振り下ろした。
けれど免は僕の攻撃ををあざ笑うように軽やかに躱す。
「動きが丸見えで……っと」
躱されるのは想定済みだ。一撃目は大きな動きでわざと避けさせた。
躱されたその切っ先が地面に着く寸前で刃の向きを変える。間髪入れずに与えた二撃目は免の足を払った。
「危ない危ない」
足に当たった手応えはあった。けど免を倒すまでは出来なかったようだ。瞬時に退がられてしまった。大して傷も負っていない。
ただ、免の動きがどこかぎこちない。右腕を失った分、バランスが悪いのかもしれない。
「実戦も……ずいぶん鍛えられたようですね。少し分が悪い」
グンッと下から引っ張られる感じがした。足元が不安定になって思わず後ずさる。
僕の足場は変わっていなかった。変わったのは免の足元だ。沼のような……いや砂だ。免は流砂にものすごい勢いで飲み込まれていく。
「出直します。傷が癒えたらまた伺いますよ」
免が月代から逃げたときを思い出した。あのときと同じだ。免の体はズブズブと地面に沈んでいく。
止めなければ!
僕は何の権限もないただの侍従だ。王太子の焱さんたちとは違う。この場で裁くことも、連れ帰って罰を受けさせるのも僕の役目ではない。
それに僕では勝てない。右腕を切ったくらいでは勝てるはずがない。
だけど、このままみすみす逃がせない。どうしたら……。
悩んでいる間に視界の端で石が揺れていた。
「暮も引き取りますね。散々ご迷惑をお掛けしたでしょう。責任を持って回収します」
暮さんの形をした岩は既に膝まで沈んでいた。
「駄目だ!」
咄嗟に駆け寄って岩の腕を掴む。沈む勢いは緩むことなく、僕が引きずられる形になった。
「おや、私の配下なのにご執心ですか? 一緒に来たいのなら私は大歓迎ですよ」
免はすごく楽しそうだ。切れ長の目が更に細くなって、砂に埋もれていくのを見届けてしまった。手を最後まで地上に残し、別れを告げるように振っていた。
「暮さん、行っちゃ駄目です!」
暮さんには聞こえていないだろう。でも声が枯れるほど叫んだ。
免の指先も完全に見えなくなった頃、暮さんを引っ張る力が強くなった。このままでは僕も引きずり込まれてしまう。
「くっ……」
その時、耳を風が掠めた。短い風に乗って何かが飛んできたような音だ。
直後に、どういうわけか暮さんを引く力が弱くなった。飛んできた物の正体も気になるけど、この機を逃すわけにはいかない。
「波乗板! 鉄砲水!」
砂の上に波乗板を出現させた。続けざまに鉄砲水を放ち、勢いをつけて流砂の中から飛び出した。
暮さんの全身が出て来る。安定した足場まで引っ張り上げた。ほっとしながら暮さんの体に傷がないか確かめる。石から戻った時に傷だらけだったら、可哀想だ。
「あれ?」
暮さんの腕が三本あった。元々三本ある体質だったっけ?
「……なっ!」
その内の一本が動いた。石と同化した灰色の腕ーー免の右腕だ。
僕がさっき切り落としたはずだ。暮さんから飛び退いて、収めた剣に手を添える。
攻撃してくるか、それとも暮さんを引きずり込むか。
そう思って身構えていたのに、免の腕は攻撃してくる気配がない。それに暮さんを引きずり込もうとする様子もない。
暮さんにすり寄っているだけで僕の存在など気にしていない感じだ。
しばらくすると免の右腕は暮さんから離れた。暮さんが沈みかけた場所へ戻ると、免の後を追うようにあっという間に消えてしまった。
「今のは一体……」
もしかして、暮さんの引き上げに手を貸した?
何故だ。何のために……。
もしかして、自分の手下を僕たちの所へ置いておくため?
だとしたら、このまま王館に暮さんを連れ帰るのは危険だ。
「どうしよう……」
問いかけても誰かが答えてくれるわけではない。結果的に免を追い払ってしまったけどこれで良かったんだろうか。
暮さんに近寄り、体に残った砂を払う。
暮さんは本当に免の手下なのだろうか。勿論、出会いは詐欺からだけど、そんなに悪い精霊には思えない。それも免の作戦のうちなのだろうか。
暮さんが元に戻ったら尋ねたいことがたくさんある。ひとまず朝を待つしかない。
何しろここがどこだか分からない。出来ることなら早く帰りたいけど、帰り方もさっぱりだ。朝になって暮さんが動き出したら相談しよう。
「はぁ……。疲れた」
長く息を吐きながら、暮さんにもたれ掛かる。僕も少し疲れた。まさかひとりで免に対峙することになるとは思わなかった。肉体的にも精神的にも疲れてしまった。
今なら苦労せずに眠れそうな気がする。思い切り伸びをしたところで暮さんがぐらついた。背中の支えがなくなって後ろに倒れそうになる。
「え? ちょ、ちょっちょちょっちょちょっと待って!」
暮さんに木の根が絡み付いていた。いつの間にか数十の根が大小問わず暮さんを包み込んでいる。
暮さんは少しずつ浮いている。根が暮さんを引き上げようとしているようだ。
免が暮さんを取り戻そうとしている!?
さっきは下へ引きずられたけど今度は上だ。
疲れた体に鞭打って剣で根を切り払う。細い根はあっさり切れた。けど太い根に手間取っている内に、次から次へと新しい根が生まれて、切るのが間に合わない。
「おぉおぅるりゃぁぁあぁああぁっ!」
「待って!」
盛大な掛け声と共に暮さんが勢い良く引き上げられる。石にしがみついて止めようとしたけど、僕も一緒に引き上げられてしまう。土が目に入りそうで、反射的な目を閉じた。
どこへ連れて行かれるんだ。
免の本拠地?
そんなところへ足を踏み入れたら、生きては帰れない。
きっとこれは淼さまの机の中を勝手に見た罰だ。
淼さま。今までありがとうございました。それと……釧を勝手に見てごめんなさい。
今までお世話になった分の、百分の一も返せてないけど、これ以上お仕えすることは難しそうです。
もうすぐ先生や潟さんが帰ってきます。淼さまはもう独りじゃないから、僕がいなくてもーー。
「いぃぃぃいぃぃいましたーー!」
ん?
「ししししししししししし雫っ! よよよよよよ良く無事でぇぇぇぇぇえ」
懐かしい吃音に目を開ける。そこにいたのは、号泣しながら大木を抱える桀さんだった。




