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水精演義  作者: 亞今井と模糊
六章 土精縁合編
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169話 汚れた泉

 体温と同じ温度の布団に入っている気分だ。とても心地が良い。ずっとこのまま動きたくない。


 でも眠いはずなのに眠れない。気持ち良いのに不快感がある。この矛盾した感覚は何だろう。


 頭がぼーっとしている。眠れないまま朝を迎えたのかもしれない。そう思うと同時にズキッとこめかみに痛みを感じた。


 体は弛緩して動かない。どうにか目を動かすと靴底が見えた。靴の先端だろう。少し細くなっている。


「つまらないですねぇ。前はもっと抵抗したでしょう」


 この声は免だ。姿が見えない。幻聴か、それとも夢でも見てるのか。


「殴っても蹴っても無抵抗なんて萎えますよ。多少抗いつつも屈服する貴方を思い描いていたのに」 


 どうやら頭を踏みつけられているらしい。免は靴の底まで灰色なんだなぁとどうでも良いことを思った。


 そういえばさっきこの足で蹴られたような気がする。それを思い出すと腹部に痛みが帰ってきた。


「水晶刀を持っていないからでしょうか。所詮ただの精霊でしたね」


 眠りを誘導するような声だ。今眠ったら、きっと快適な睡眠を得られるだろう。それなのに眠れないのはどうしてだろう。


 危機的な状況であることは分かっている。分かっているのに、危険だという警報さえどろどろに溶けていく。


「さて、その純粋な理力をいただいて、魄失になってもらいましょうか?」


 頭から足が下ろされた。ほっと息が漏れる。ふわふわしていてどっちが上だか分からない。地面に伏しているはずなのに浮いている感じもある。


「しかし、こんメルベンも貴方が倒してくれたので、人材不足なのですよ」


 ほっとしたのも束の間だった。後頭部の髪を掴まれて自然に顔が上がる。


 また蹴られるのかと心臓がバクバクし始める。けれどすぐに安らいだ気持ちになってしまう。これが賢者の石の鎮静効果だろうか。こんなに恐ろしいものだったなんて。


「折角だから私の手足になってもらいましょうか」


 免を眼前にしたこの状態で穏やかな気持ちになるなんてどうかしている。頭を振って酩酊状態を打ち払おうとした。


 けど頭を押さえられていてびくともしない。自分の体なのに自分の意思で動かせないなんて情けない。


「さて……貴方の名は何でしたか?」


 そんなの知ってるはずだ。けれど今回、免に会ってから、まだ一度も名前を呼ばれていない。


 もしかして免は僕の名前を忘れてしまったのか?


「……し、ずく」


 指一本でさえ動かしたくない。けど口は動いてくれた。免は後頭部の髪を放して、同じ場所を撫で始めた。とても心地が良い。動こうとする気が失せる。


「素敵な響きですが、似合いませんね。それは雨伯の末子の代わりに付けられた名です。貴方に似合わなくて当然ですよ」


 雨垂れのしずくーー雨伯の末子だ。以前、竜宮城で肖像画を見せてもらった子だ。流没闘争に巻き込まれて助からなかったという。


 正真正銘、雨伯の実子だ。養子の僕とは格が違う。


「……あ」


 自分で何を言おうとしたのか分からない。ただ意味のない声が漏れ出てしまった。正面にある免の顔は満足そうだ。


 免の顔を間近で見るのは久しぶりだ。切れ長の目、透き通った鼻筋、全てを吸い込むような瞳……顔の中のあらゆるパーツがバランス良く並んでいる。


「可哀想ですね。貴方は所詮、亡くなった子の代わりなのです。それは別に貴方でなくても良いのですよ」 


 ズキッと体のどこかが痛む。朦朧としていてどこが痛いのかハッキリ分からない。


「その前の名は?」

「ぅ……るぅい」


 るいと言いたかったのに呂律が回らなかった。ちゃんと聞き取れただろうか。 


「それはいにしえの王の名です。偉大な王だそうですよ。その子孫は何代にも渡ってその名を名乗り続けたそうです。引け目を感じませんか?」


 王の名?

 歴代理王にそんな名前の王がいたかな?


 でも偉大な王と同じ響きの名前を持つなんて不謹慎だ。


「……は」  


 尋ねられた気がしたので返事をした。すると再び満足そうな顔で後頭部を撫でられる。


 とても気持ちが良い。どこだか分からない痛みが蕩けていくようだ。


「ねぇ、偉大な王など貴方には縁がない。そうでしょう?」


 声を出すのが億劫で頷くだけにした。すると後頭部から手が外れる。手は頬に滑り降りてきた。


 触れられた瞬間、顔に痛みが走った。殴られたところかもしれない。


「貴方に相応しい名がありますよ。貴方だけの例外とくべつな名を贈りましょう」


 両頬を抑え込まれ、灰色の瞳に捕らえられる。しっかり視線を絡ませてくる。そうされると思うように息が出来ない。息をする権利を奪われたみたいだ。


 その内、ドロッとした何かが僕の中に……泉に入ってきた。濁りが気持ち悪い。これ、何だろう?


「貴方は『けがす』。泥で汚れた水の精霊、けがす。それが今日から貴方の名です」


 泥か。

 異物を押し出そうとしているのか、吐き気がする。体に力が入っていたら暴れていたかもしれない。


「性別は……どうしましょう。どちらでも良い名ですからそのままで良いですね」 


 指先まで土が入ってくる。こんな経験初めてで例えにくい。強いていうなら鼻や耳に水が入った違和感に似ている。それが全身に広がっている。不快だ。


「あ……ふ」

「受け入れなさい。楽にして、何も考えず、眠ってしまいなさい。起きたときには文字通り生まれ変わっていますから」


 眠れるものなら眠りたい。何故だか分からないけど、頭は朦朧としていても眠ることが出来ない。


 ーーその内、睡眠も必要なくなるかもね。 


「……あ」


 頭の中で大切な精霊ひとの声がした。食事も必要なくなって、睡眠も必要なくなって……そう言われたのはいつだったか。


「おや、すばらしい。ここに来て少し抵抗するとは。魂から名が剥がれないとすると、『けがす』が気に入りませんか?」


 ーー食べなくても良いんだけどね。食事が楽しいと教えてくれたのは雫だよ。


 淼さまの声が繰り返し聞こえる。働かない頭の中で山彦のように鳴っている。


「それとも誰かがこころを支えていますか?」


 動かないはずの肩が跳ねた。淼さまのことを考えていたのがバレてしまったのかもしれない。


「今、貴方のこころにいるのは誰ですか?」

「淼さ……ま」


 口が勝手に動く。


 淼さま、助けて。助けて下さい。


「あぁ水理王ですか。確かに水晶刀を貸すくらいですから、信頼関係はあるのでしょうね。侍従にこんなに想われて水理王は幸せですね」


 淼さまが幸せ?


 それは良い。淼さまは僕が尊敬する大切な精霊ひとだ。ずっと幸せでいてもらいたい。


「ですが……水理王のこころにも貴方はいるでしょうか? もっと大切な方がいるのではないですか?」


 淼さまの大切な方?


 頭の中で響いていた淼さまの声が置き換わる。


 ーー大好きよ、ーール。ずっと一緒にーー。 


「あ……あぁ……あっ……」


 言葉が紡げない。思っていることはあるはずだ。それなのにどう表現すれば良いのか分からない。言葉が口から出るのを拒んでいる。


「水理王は助けに来ません。貴方よりも大事な存在がありますから。けど私なら貴方を大切にしますよ。配下に贔屓は禁物ですが、貴方は例外とくべつです」


 言われていることが半分くらいしか理解できない。ただもう悲しいことなんか考えたくなかった。


 声が心地好い。頬を撫でる手が気持ちよい。もうそれだけで良い。


「例え眠れなくても、も……っと心地よくなりますよ」


 今だって気持ちいいのに、もっと心地よくなれる。それはすごい。もっと耳元で何か言って欲しい。もっと頬を撫でて欲しい。もっと僕を必要として欲しい。


「あ、あぁ……」


 この幸福感を言葉で表せないのがもどかしい。僕の顔を押さえていた免の片手が背中に回っていた。僕の体は弛緩していて、免に支えられていないと起きていられない。


 もう……このヒトなしでは自力で起きることも出来ないのかもしれない。免は微笑みながら僕の左耳に口を寄せ、空いている手で右耳に軽く触れた。


「良い子ですね。決壊しなさい、けがす


 右耳の縁をコリッと撫でられた瞬間、頭の中で轟音がなった。いや、轟音というには小さいかもしれない。


 泉の土手が崩れた音だろう。一部分だけど周りもヒビが入ったり、剥がれかけたりしている。全て崩れるのは時間の問題だ。


 全て崩れたら水が流れ出すだろう。それとも埋まってしまうのが先か。


 さっき崩れた土手が水に浸かっている。石はいち速く沈み……土は水を汚していく。


 ーー汚れるだぁ? 土を汚れ物呼ばわりするのか?


 最近、出会った精霊の不満げな声がした。


 そう…………そうだ。土は……土は汚れじゃない。


 


 

「土で汚れたけがす。私の名を呼びなさい。いつもこころに私がいるように。私の真名は……っ」 


 肩に置かれた免の手を玉鋼で振り払った。ボトッと足の上に質量のあるものが落ちてきた。生暖かい。


 免が僕から飛び退くように離れる。ゆっくりだけど体の指揮権が返ってくる。


「土は汚れじゃない」


 玉鋼之剣がヒュンッと音を奏でる。ほぼ初めて使う剣は恐ろしいほど手に馴染んでいた。

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