16話 王館の外へ
読んでくれてありがとうございます。
王館に上がって早十年。初めて王館の敷地外へ出ることになる。
いつも中で過ごしている王館を改めて外から見上げる。黒塗りの壁が荘厳な雰囲気を醸し出していた。
こんなすごい所にいたのかと慄いてしまう。
「雫、行くぞ。忘れ物、特に置き忘れたものはないな?」
「あ、うん。昨日から増やしてないよ。えっとー、どっちへ行けばいいんだっけ?」
キョロキョロとあたりを見渡す。出口がどこだか分からない。
辺りには美しい中庭には色とりどりの花が咲いている。でも今はゆっくり鑑賞している場合ではない。
「こっちだ」
淡さんから離されないように中庭を抜けていく。池に浮かぶ水連、白い水芭蕉、赤い小蛙花。
だめだ。花を目印にしようと思ったけど、もう道がわからない。一人で帰って来られる自信がなくなった。
絶対に淡さんから離れないようにしないと。
僕がそんなことで悩んでいるとは気づかないまま、淡さんは振り向かずに僕に言う。
「王館は全部で五つある。雫が普段過ごしているのは、黒塗りの水の王館だからな。迷ったらとりあえず黒い建物を探せ」
何だか気が遠くなってきた。今の王館だけだって広くて、掃除とか掃除とか掃除とか大変なのにそれがあと四つだって?
今まで王館から出ようとしなくてよかった。出たら確実に迷っていた。二度と淼さまの元へ帰れなくなっていたに違いない。
急に淡さんが立ち止まったので、慌てて止まって視線を上げた。赤い後頭部が目の前で佇んでいる。
少し身を傾けて淡さんの背中から顔を出すと黒い門が見えた。二人の門番がいる。淡さん以外の働き手を見たのは初めてだ。
「これはこれは。水門からお出掛けですか? ごきげんよう、焱さま」
「淡・雫。水理王並びに火理王の許可を以て通るぞ」
「……はっ。かしこまりました」
門番の一人と話しているようだ。でもよく聞き取れなかった。門番が何か言ったのを、淡さんが遮ったみたいだ。
僕ももう一人の門番と目があった。軽く会釈をされたのでお辞儀を返しておく。
「雫行くぞ。少し急がないと夕方になっちまう」
二人で片側だけ開けられた黒塗りの門をくぐった。
ところで僕の実家への行き方を淡さんが知っているのが不思議だ。淼さまに聞いたのかもしれない。
僕の実家と言っても僕の本体はなくなってしまった。だから、母上の河が僕の実家といえるだろう。
このまま一刻ほど歩けば、細い川に出るはずだ。あとはその川を辿って行けば、そのうち母上の河に着く。歩きなら三日くらいと思う。幸い今回は船で行くから、一日で行ける。
王館が見えなくなるくらいまで歩いたところで、ふと思った。
「母上にお土産を用意すればよかったなぁ」
僕が用意できるものなどタカが知れている。でも手土産みたいなものがあったら良かった。出発してから思ったのでは遅い。
すると淡さんが足を止めて僕を振り返った。
「それなら、市に寄っていくか? 着くのは夕方どころか夜になっちまうけど」
「市? 何それ?」
さっきから淡さんに知らない単語を言われて、聞き返してばかりだ。僕の無知がバレバレだ。
でも『知らないことを知らないといえる素直な気持ちは大切だ』と以前、淼さまに言われたことがある。だから、遠慮せずどんどん尋ねることにしている。
「精霊が集まって、自分の管理する本体や領域で収穫したものなんかを交換し合っているところだ。あまりのんびりは出来ないが、せっかく外に出たんだから見ていくのもいいかもな」
「交換って言われても僕何も持ってきてないよ」
僕の愛用している鍋とか掃除道具とかは、すべて置いてきてしまった。持ってくれば何かと交換できたかもしれない。ちょっと失敗した。でもそれもよく考えたら僕の私物ではなくて、王館のものだった。
淡さんが残念そうな目でこっちを見ているのは何故だろう。普段から先生には良くこういう目で見られているけど。
「物がなければ金でも平気だ。水理皇上からいくらか貰ったんじゃないのか?」
「かね? 鐘? 貰ってないよ」
ゴーンという音が頭の中で響いた気がした。淼さまは鐘をついたり、叩いたりしない。
「ちょっと発音が違う気がするな。たぶん考えていることは間違ってるぞ。こういうやつ、渡されてねぇの?」
淡さんが自分の服のポケットから金属の丸い板を一枚取り出した。
「あ! それなら何かに使うかも知れないから持っていきなさいって。えーと……ほら!」
腰に結んでいたので、重さで結び目がちょっときつくなってしまった。なんとか外して淡さんに中身を見せる。
淡さんの視線が袋の中で細かく動いている。ざっと袋の中身を数えるようだ。
「…………うわ。引くわ。どんだけ持ってんだよ。五十金貨とかないわ。どんだけ親バカなんだ」
「僕の母上はバカじゃないよ」
ちょっとムッとして答える。でも淡さんは呆れたように首を振った。
「お母上のことじゃねぇよ。まっ、そんだけあれば結構いいものと取り替えられるだろ」
淡さんの言葉を聞きながら、僕は袋を腰に結び直す。淡さんの言う通りなら、きっとこれは価値があるものだ。大事に使おう。
「何か心配になってきた。やっぱ俺が預かるわ。貸せ」
淡さんが結びかけの袋を取り上げた。必要なときは言えと言われたけど、何が心配なのだろう。とりあえず大人しく預けておくことにした。
◇◆◇◆
「うわぁ! すごいっ!」
市につくと、通りが精霊でいっぱいだった。ものすごい混み方だ。まるで産卵のために遡上した鮭のようだ。
「今日は木行日だから、木精が品を出してるはずだな。道の両側で品を並べているのは皆木精だ」
「市の日が決まってるの?」
混雑に流されないように、淡さんの目立つ赤い髪からはぐれないように気を付ける。淡さんが振り向いて僕の腕をつかんだ。
「はぐれないように気を付けろ。ここで迷ったら市が閉まるまで会えないと思え。日行日じゃなくて良かったな。日行日なら全属性が市を出すからこれの五倍は混んでたぞ」
淡さんの説明によると。
火行日は火精の市の日で、水行日が水精の市、木と金と土はそれぞれ木精と金精、土精の市で、日行日は全属性の日だそうだ。ちなみに月行日はお休みらしい。
「まぁ、いつも同じ奴が構えてるとは限らないけどな。さて、何を見るかだな。木精が出しているものというと、花とか果物とか、あとは机とかの家具なんかだけど、鞄に入らないものはやめておけよ」
「う……うん」
なんとなく返事はしたけど見てみないことにはよく分からない。
淡さんと何ヶ所か見て回ることにした。
淡さんの言うとおり果物や花を並べている所が多い。母上は色とりどりの花も甘酸っぱい果物も好きだったはずだ。でも、折角だから何か形に残るものを贈りたい。
「いらっしゃいませー。あなたのかわいい方にお花を贈りませんか?」
「いらっしゃい! 椀・皿・匙・もろもろ! 漆塗りなら是非こちらへ!」
「お兄ちゃんたち! ちょっと見ていかないかい⁉」
淡さんが両脇から掛かる声をうまく躱してくれる。恰幅のいい女性から手が伸びてきたときはちょっと焦った。もうちょっとよく見たいけど、だんだん怖くなってきた。
「そちらの火精の坊っちゃん方、寄っていきませんか?」
斜め右の方から静かだけど真っ直ぐに通る声がした。僕たちは水精だ。けど、僕たちの方を見ているから間違いなく僕たちに声をかけている。
淡さんを見るとちょっと嫌そうな顔をしている。火精に間違われたのが嫌だったのかな。
あ、箒が置いてある。
竹箒を目ざとく見つけてしまった。引かれるようにそちらに近づくと、淡さんも付いてきてくれた。箒は持っていくなよと念を押された。
茶色の髪に緑の帽子を被った姿勢のいいおじさんがニコニコしながら話しかけてきた。
「ようこそ、火の坊っちゃん方。見ていってください」
「こんに」
「水精だ。間違えるな」
やっぱり間違われたのが嫌だったらしい。
僕が挨拶しようとしたのを遮って淡さんが否定の言葉を入れた。
「水精……? あ、本当だ。こちらの坊っちゃんは水精ですね。失礼しました。上等の火鼠の衣が見えたものですから、てっきり高位火精の坊っちゃんかと……」
「もういい。ここの品は何だ」
淡さん、そんなにぶっきらぼうな言い方しなくても良いのに。火精に間違われたことがそんなに嫌だったのか、淡さんは腕組みをして顎を少し上げている。知らない人だったらちょっと怖い。
木精のおじさんは淡さんの圧力にめげずにニコニコしたまま品物を見せてきた。
「私どもはですね、竹で作った小物を取り扱っております。こちらの竹の皮で作られた紙入れなどは水精の坊っちゃんにお似合いかと思いますが、いかがですか? そちらの火精のお」
「買うのはこいつだけだ。俺に話を振るな」
淡さんのキツイ言い方に、おじさんが笑顔のまま固まってしまった。




