163話 来々客
金貨一枚が低位精霊十人の半月分の食料になるという事実に驚きを隠せない。にやにやしている漕さんから目を逸らして冷静に計算をする。
十人で半月と言うことは、もしこれが二人だったらとしたらどうだろうか。
例えば……沸ちゃんと滾さんみたいな二人暮らしだったら、単純計算で金貨一枚で二ヶ月以上生活できることになる。
母上に贈った櫛は金貨二枚半だ。
……あのときの金貨は淼さまから出してもらった。今になって真の価値を知ってしまい、汗が止まらない。
「坊っちゃん、考えてることはなんとなーく分かるけどな。あれは坊っちゃんの十年分の労働の対価やって御上は言ってたで。気にすることあらへんよ」
気にしないわけにはいかない。漕さんは壁に付けたテーブルに寄りかかった。視線はその上に置かれた果物に注がれているけど、それは香用だから食べてもあまり美味しくはない。
「対価なんて必要ないです。置いてもらってるだけでもう……」
コンコンという控えめなノックで言葉が止まってしまった。一瞬、扉ではなく窓を見てしまったのは仕方ないことだと自分でも思う。
漕さんは視線だけを扉へ送り、僕に進路を譲ってくれた。その横を通りすぎる過程で漕さんに話しかける。
「もしかして潟さんが帰って来たのかも」
「いや……水精はこんな無機質な気配やないよ」
漕さんは果物に手を伸ばし、くんくんと鼻をつけると元の場所へ戻した。その後、盛大なくしゃみをしているから、匂いがお気に召さなかったのかもしれない。
それを聞きながら扉を開けると目の前に巨大な埴輪が現れた。
「よー、邪魔するさー」
……とそれに乗った蚯蚓も一緒だ。埴輪は少し屈むようにして僕の部屋の扉をくぐる。
淼さまの執務室へは埴輪に乗ってくることはなかったのに、どうして今日は見回りみたいな埴輪に乗ってるのか。
「この部屋、植木鉢ないんだな。移動に不便だったさー」
だからか。確かに大きい埴輪なら歩幅も大きそう。っていうか坟さん人型になって自分で歩こうとは思わないんだ……。
「理王会議は他にも議題があって長引くらしい。で、暮の処分が先に言いわたされたのさー。月長石と代金分の労働。大体十年ただ働きってことだね」
なるほど。坟さんと淼さまが予想していた通りになった。暮さんは大丈夫だろうか。自分の罪とはいえ、ここに残ることになってしまったけど、それでいいのかな。
「御役が集まってるって聞いたからここに来たんだけど漕だけか。颷と鈿はどこ行ったさー」
御役っていうのは初めて聞く言葉だ。でも恐らく水先人みたいな役の精霊たちのことだろう。
「さっきまでいたんですけど……」
坟さんは漕さんに頭の先をくいっと向けた。もしかしたら頭じゃなくて尻尾かもしれない。
「まぁ……察しはつくさー。それと侍従長サマへの謝罪も言い渡されたから、後で来るだろうよ」
漕さんと颷さんの仲の悪さはここでも評判らしい。漕さんは何も言わなかったけど冗談っぽく肩を竦めていた。
「別に謝罪はいいんですけど、暮さんは今どこにいるんですか?」
「土の王館の牢で、土太子が管理してるさー。でも今日には木の王館へ移されるね」
垚さまが捕縛したから土の王館に置かれているのは分かる。けど何で木の王館?
「あ、御上からや」
漕さんは片耳に手を当てて床の一点を見つめだした。淼さまからの声に集中しているんだろう。僕も坟さんも邪魔しないように黙っていた。
「うんうん。なるほど。……はー。はいはい。行ってきますわ。……坊っちゃん? ちゃんと、自分の部屋にいますよって。はい、ほな」
淼さまと話していると分からなければひとりで喋っている怪しい人物だ。淼さまと話が終わったのか、漕さんはため息をついた。精霊使いが荒いって思ってそう。
「暮いうのは木の性質を持ってたんやて?」
「え、混合精ってことですか?」
僕が聞き返すと漕さんにも坟さんにも首を振られた。蚯蚓に首があるかどうかは分からないけど。
「そうじゃないさー。草原から生まれた闇だって言うから、調べたらホントに木精の要素をもってたのさー。だから木の王館へ移す必要があるんさー」
分かったような、分からないような。どのみち桀さんの仕事になるわけだ。桀さん大丈夫かな。
「じゃあ、用は済んだからあっしは帰るさー」
「あ、はい。わざわざどうも」
坟さんを乗せた埴輪は来たときと同じように腰を屈めて出ていった。暮さんのことを伝えるためだけに来たのかな。わざわざ僕に与えるような情報だったんだろうか。確かに同行はしたけど、他の方々と違い僕はただの侍従だ。
「なんやかんやと、坟も坊っちゃんが気に入ったんやね。心配でわざわざ様子を見に来るくらいや」
どうやら心配してくれていたらしい。皆に心配してもらえるのはありがたいんだけど、僕ってそんなに頼りないかな。
「じゃあ、坊っちゃん。うちもさっき御上から用事を言いつけられてん。失礼するわ」
「あ、は、はい。漕さんも来てくれてありがとうございました」
漕さんは来た時の姿と異なり、魚の姿に戻ってしまった。入ってきた窓は閉めてしまってので、水差しの中へ入っていく。寝台の横に置いたままだったものだ。ぬるくてあまり心地よくなかったに違いない。
静寂が訪れる。
今後こそひとりになってしまった。けど、椅子の背もたれに手をかけたところで再び扉が叩かれる。しかも僕が返事をする前に扉が開いて、見慣れた赤い髪が現れた。
「焱さん……」
「よぉ、雫」
ノックと同時に扉を開けたらノックの意味がない。でもそんな野暮なことは言わない。焱さんは遠慮することなく、ツカツカと僕の部屋に入ってきた。
「なんだ、俺の顔になんかついてるか?」
「いや、……なんかほっとしたっていうか」
今日はひとりだと思ったのに来客が多くてなかなか賑やかだ。孤独感に浸る暇がない。
ただ、付き合いの長い焱さんはやっぱりちょっとほっとする。指摘されるまで不躾に顔を眺めていたことに気づかなかった。
焱さんはそんな僕の様子を不思議そうに見つめている。
「まぁ、いいけどよ。それより暇か? 暇だよな? 桀んとこに書類持ってくんだけど一緒に行くか?」
焱さんは顔の横で書類を小刻みに振り、ペラペラと音を立てる。
「あ、い、行きたい!」
元々、焱さんや桀さんのところへ行こうと思っていたくらいだ。市での出来事も話したいし、焱さんから沸ちゃんたちの話も聞きたい。
大して散らかしてはいないけど、本を閉じて机の上を整理する。
「そういうと思ったぜ。行くぞ」
すでに部屋から出掛かっている焱さんのあとを追って、木の王館へ向かった。




