150話 去る者来る者
数日で戻ると言っていた先生が七日経っても帰ってこなかった。
「え、先生そんなに悪いんですか?」
淼さまも流石に心配して潟さんに様子を見てくるよう命じた。今朝早く出掛けた潟さんは夕方になってようやく戻ってきた。
「はい。筋が伸びきってしまったようです。表面は理術で補えても完治にあと半月ほどかかるかと」
潟さんにしては珍しく早口で述べる。潟さんとしても予想外だったのかもしれない。
「じゃあ潟さんは先生の側にいてあげてください」
腰を痛めた状態では色々不便だ。先生が自宅でどう過ごしているか分からないけど、息子さんがいた方が心強いはずだ。
「え? い、いえ私は雫さまのお側におります。父の側には仕えて長い下位精霊が数人おりますのでご心配には及びません」
先生くらいの高位になれば側仕えが何人かいてもおかしくない。けど、それはそれだ。
「いや、行って看病した方が良い。潟、一旦護衛の任を解く。半月後に戻れ」
潟さんの口角は片方だけ上がっていた。笑顔が強張っているのを淼さまも見過ごさなかったらしい。
僕の護衛の任を解いてしまった。こうなってしまえば潟さんはここにいる意味がない。だから帰るしかないわけだ。
「……では、お言葉に甘えて」
「甘えを許可した覚えはない。ただ命令に従えば良い」
厳しいのか優しいのか分からない淼さまの言葉に潟さんは少し微笑んだ。まるで弟でも見ているかのような優しい顔をしている。その笑顔のまま潟さんは波に飲まれて去って行った。
「先生、早く良くなると良いですね」
「そうだね」
二人きりになってしまった執務室が少し広く感じた。執務室に潟さんがいないことなんて珍しくない。でも必ず夕方には迎えに来てくれたし、一日に数回顔は見せた。それがしばらくいないとなるとどうも調子が狂う。
前はこれが普通だったのに、いつの間にか潟さんがいることが当たり前になっていたようだ。潟さんに嫉妬していた頃の自分を叱ってやりたい。
「……」
淼さまが上品に茶器を置いた。僕は向かい合うようにソファに座ってその様子をただ眺める。
あれ? 潟さんが来る前は何の話をしてたんだっけ。
「……雫?」
「は、はい! えーっとぉ……い、イイ天気デスネ」
淼さまが驚いたような顔をして後ろの窓を見た。窓枠に切り取られた空には雲が二つほど浮かんでいる。
「晴れが良い天気だと言うならそうだね。雨伯が怒りそうだけど」
しまった。雨の精霊を養父に持っている自覚が足りなかった。
「雫、天気の話は良いから……どこまで理解したのか続きを聞かせて」
そうだった。借りた本の内容を覚えている範囲で述べるように、と言われたんだった。
「潟が来たとき、ちょうど天地開闢のところだったかな」
「えーと、元々精霊がいた世界が崩壊し始めたので、危機を感じた精霊が『精霊だけの世界』を創ろうと立ち上がった……っていうところですよね」
淼さまの茶器が空になっていた。代わりを注ごうとしたらやんわりと制された。
「そうだね。それからどうなった?」
「集まった精霊の中でも特に力の強い十二人の精霊が新天地を築き、多くの精霊がそこへ移った……って書いてありました。十二人の精霊っていうのは始祖の精霊ですよね?」
淼さまが頷く。淼さまが僕の顔を真剣に見ている。その顔はどことなく先生に似ている。
「けれど本体が変えられてしまった者は付いてくることが出来ず、元の世界に留まることになった。一方、新天地に落ち着いた精霊は世界が崩壊しないよう理を作り、その管理者として理王が生まれた……こんな感じですか?」
淼さまが再び頷いた。
「そうだね。その前は?」
「へ?」
その前ってどの前?
「天地開闢の前の部分は読んでない?」
「最初から読みましたけど、まだそこは……」
僕の記憶違いでなければまだ触れられていない部分だ。順序から言ってもっと前に出てきても良さそうな内容だけど。
淼さまは少し考える素振りを見せて何かを諦めたように軽くため息をついた。
「悪かったね。師匠の考えもあるだろうから、これ以上は追及しない。今後に期待してるよ」
僕はまだそこを学ぶに至っていないようだ。潟さんが言っていた読めない内容かもしれない。だとしたら淼さまの期待には応えられないかもしれない。
「もし僕が……」
深く学ぶことができなかったら用済みだろうか。
そうなったらもうここには置いてもらえない。いくら高位になったからと言って、役に立たない僕をいつまでも側において置いておく必要はない。先生だって回復すればすぐに戻ってくるだろうし、潟さんだっている。
「そのまま引き続き頑張って……『氷柱演舞』」
淼さまが励ましの言葉に続けて、初級理術を放った。僕に打たれたのかと思って、心臓が縮み上がる。
けど淼さまの指先は僕を向いておらず、壁に向いていた。壁に寄せた背の高い植木鉢に氷柱が集中して刺さっている。
「ぐわっはーっ!」
雄叫びをあげて鉢が倒れた。本気なのかふざけているのか定かではない低い声だ。鉢の土は大量の氷柱で見えず、深く刺さっているのか幸い中身が零れることもなかった。
「ちょっ……ちょっ、し、死んじゃう! 死んじゃう!」
「その声は垚さまですか?」
少しだけ冷静な声を聞いてようやく声の主が分かった。席を立って鉢を起こしに行く。鉢には氷柱が隙間なく詰まっていて、新しいオブジェが出来上がっていた。
「垚さま、どこですか?」
「雫ちゃぁあん! 助けて!」
助けて良いんだよね?
確認のため淼さまを振り向くと素知らぬ顔でお茶を飲んでいた。足を組んで茶皿を手に取り、ソファに体を沈めている姿はとても様になっていた。
「雫ちゃぁあぁあん!」
うっかり淼さまに見とれて垚さまの存在を忘れていた。淼さまが何も言わないってことは助けても良いだろう。
氷柱を一本抜くと生まれた空間からシュッと影が飛び出してきた。僅かに足音を立てて僕の隣に着地する。
「痛い……ひどいわよ、水理こうじょぉお」
床に広がった影は一瞬でぐんと体積を増し、見覚えのある垚さまの姿になった。頭から血を何筋も流している。
「ぎ、垚さま大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわ。……雫ちゃん、癒して」
垚さまが僕にしなだれかかってこようとしたので、精一杯受け止めるつもりで足を踏ん張った。けど今度は垚さまの顎に豪速球が当たって、垚さまの体を床に伏せてしまった。
「雫に触るな、盗聴犯」
淼さまから放たれたのは特大の氷球だった。床に転がる氷球はシュウシュウと音を立てていて、僕が作る氷球なんか比べ物にならないくらい固そうだ。もしかしたら石も砕けるんじゃないだろうか。
「あ……かっ……は」
「ぎ、垚さま大丈夫ですか?」
さっきも同じことを聞いた気がする。
倒れている垚さまは顎をかくかくさせている。
「雫、土の太子に水の攻撃なんて大して効かないから心配ないよ」
それは土剋水の性質だろう。でも、水理王の理力と土太子では水が勝ってしまいそうな気がする。
「ひ……ひひょいわ。あひゃくしのこひょ……何ひゃと思っひぇ」
垚さまが息も絶え絶えというように起き上がろうとした。手を掴んで欲しそうに伸ばしているので、握って背中を支える。
額から流れる数本の血の跡に腫れている顎。見ているだけで痛々しい。
「何のようだ、土太子」
「あ、そうそう」
淼さまがそう言うと、垚さまは見た目の負傷度合いとは裏腹にすごい力で僕の肩を引き寄せた。
やっぱり淼さまのいうようにあまり効いていないのかな。さっきまであんなに『痛い、ひどい』と言っていたのに、動きに支障はなさそうだ。
「雫ちゃん、貸して?」
執務室に強力な氷雪風乱射が吹き荒れた。




