139話 木太子『森』
「桀さーん、大丈夫ですか?」
「雫さまぁあぁらふしたこ」
桀さんの額に乗せた手拭をひっくり返した。少しぬるくなっていたので、小さい氷をいくつか作って内側にくるんでみた。
王太子の部屋……の続き間に運ばれた桀さんは、長椅子の上で目を覚ました。気付けに強めのお酒を飲まされたせいでまだ喉を押さえている。駆けつけた薬草の精霊たちから少し休むように言われていた。
「ももみむ申し訳ないです……こここんなこと」
「気にしないでください。僕は他の方々と違って王太子じゃないですから」
今頃、焱さんたちは林さまが木理王になるための戴冠式に参加しているはずだ。立太子の儀は代表者が王太子でなくても良かったけど、流石に理王の戴冠式となるとそうはいかない。
全属性が同じではないそうだけど、木精の場合は他属から理王か王太子、或いは両方が出席するらしい。だから今度は淼さまが来ているし、僕が代理で出席するわけにはいかない。
「僕が付き添えて良かったです。桀さんとも話したかったですし」
先ほど来た薬草の精霊も高位精霊だから全員戴冠式に出席している。桀さんに付き添う者がいないので、僕でちょうど良かったかもしれない。
桀さんが王館に来てから、半年ほど経ったけれど、ふたりでゆっくり話すことはほとんどなかった。特に桀さんが忙しかったからだ。
淼さまがわざわざ木の王館に用事を作って、僕をお使いに出してくれることもあった。けれどその頃、桀さんは突貫作業で王太子教育を受けていたから、挨拶が出来ればまだ良い方で、会えないことが多かった。
「き、急に色々なことが起きすぎて何がなんだか……何故、某ごときが王太子になっているのでしょう」
桀さんが額の手拭を目まで下げて、その上から両手で覆ってしまった。顔が見えなくなる。
「桀さんは……あ、桀さんって呼ぶの失礼ですよね。えっと森さま?」
少し前までは気軽に話せたけど、立太子の儀を終えた桀さんは正式に王太子だ。今までみたいに気安く話しては失礼だ。
「おひゃあっ!」
木の王太子名である『森』の名で呼び掛けたら、桀さんがすごい勢いで飛び起きた。上半身が飛んでいきそうな勢いだったけど、飛んだのは額の手拭だけだった。
「おぉろおろりひらまめ」
平豆?
飛んで行く手拭の行方を追いきれなかったけれど、ベタッと壁に張り付いているのが確認できた。
「桀さ……じゃなくて森さま、落ち着いてくださ」
「おひゃあぁあぉえあ!」
落ち着くどころかひどくなってしまった。桀さんは虫でも入ってしまったのか全身を掻きむしっている。
「し、雫さま。止めてください、と、とと鳥肌が! 今まで通り呼んでください!」
「え、で、でも失礼じゃないですか?」
騒ぎの中でもベチャッと湿った音が聞こえた。多分、手拭が壁から剥がれ落ちたのだろう。
「ど、そ、そんなことは、あぁありません。どうかそのままで」
「じゃあ、せめて『桀さま』って」
また奇声をあげながら首の後ろを掻き出した。そろそろ止めないと皮膚がなくなってしまいそうだ。
「し、雫さま。冗談はお止めください。ひひひひは火の太子のことは『焱さん』と呼んでいましたよね!? 何故某だけ『桀さま』なのです!?」
掻くのを止めようとして、差し出した右手を掴まれた。ギリギリとすごい力で絞められて痛い。
「いや、あの、焱さんは長い付き合いで『さま』付けは止めろって言われたからで、鑫さまとか垚さまとかは普通に…」
「ででででしたら某もそのまま呼んでください!」
く、苦しい。
手を放してくれたと思ったら、今度は胸元を掴まれている。前後に揺さぶられて舌を噛みそうだ。
「あ、桀さん、わわわ分かりました。分かりましたから!」
桀さんがピタッと止まって服を解放してくれた。両胸に縫われた紋章が原型を保っていない。
「あ、すすすすみません」
クラクラする頭を押さえながら服のシワを伸ばした。何とか顔を上げると、桀さんの首には何本か赤みを帯びた筋が入っていた。掻きむしってしまった跡だ。
「でも桀さんが僕のこと雫さまって言うのもおかしいですよ」
「え、そ……それは」
属性が違うとはいえ、王太子が侍従のことを『さま』で呼んだらおかしい。それは分かっていると思うけど、桀さんはちょっと抵抗がありそうだ。
それでも僕が『雫さまと呼ぶのをやめないと桀さんのことを王太子名で呼ぶ』と言ったら、渋々納得はしてくれた。
桀さんが元気になってきたので壁に向かった。拾った白い手拭に絨毯の繊維が何本か付いていた。
「そうだ、桀さん。ずっと聞いてなかったんですけど、王館に来て王太子になった日のことって聞いても良いですか?」
手拭を手に長椅子に戻る。引っくり返せば桀さんの首を冷やすくらいは出来るだろう。そう思ったのに、桀さんは被っていた薄い布団を蹴飛ばして飛び出して来た。
「き、聞いてください! 雫さ………………ん」
濡れた手拭ごと僕の手を思いきり握る。中に包んだ氷が溶けて絞っていない雑巾みたいな感触だ。
「某も何が何やら。めめめめめ目が覚めたら林さまがいて、『芳伯のことを守れる精霊になりたくないか?』と聞かれたので勿論だと答えたのです。そうしたらあれよあれよと……気づいたら王太子の任命書が手元に」
その『あれよあれよ』の内容が知りたい。大事なところが聞けなかった。けれど芳伯を守りたいかという質問はちょっとずるい。ずるいけど良い質問の仕方だと思う。
最高位の伯位を次位の仲位が守れるかというとちょっと難しい。伯位を守護するとしたら王太子か理王か。
伯位を守りたいかと聞かれて是と答えれば、王太子になることを承認したと捉えられる。けれどかなり強引な理屈だ。騙したとまでは言えなくてもそれに近い。切羽詰まった木精の事情を考えれば仕方ないかもしれない。
「こんなことになるなんて……某に王太子なんて勤まるわけありません」
桀さんの手から雫が落ちている。力を入れすぎてタオルが搾られているようだ。手拭を引っ張ると桀さんがハッとしながら手を外してくれた。
「でも『王太子の試練』を終えることが出来たんですよね。だから桀さんは素質があるんですよ!」
任命後に行われるという王太子の試練。それを無事に終えないと立太子の儀には臨めない。
「し、しかし。某は……つい先日まで身寄りのない低位で」
「桀さん」
先ほど桀さんが放した手を今度は僕が包んだ。桀さんの手はまだ濡れている。
「偉そうなことは言えないですけど、僕も王館に来たばかりの頃は何も出来なくて、淼さまや焱さんに助けてもらってばかりでした」
今だってそうだ。高位になったからと言って何も変わっていない。泉が戻っても、背が伸びてもたくさんの精霊に支えられている事実は変わらない。
淼さま、焱さん、漣先生、潟さん。それに漕さんや鑫さま、林さま。
王館にはいないけど沸ちゃんや滾さんも協力してくれるし、母上はいつでも僕の帰りを待っていてくれる。雨伯を含めた養家族も皆、暖かく迎えてくれた。
何も分かっていなかった頃よりも、むしろ今の方がたくさんの精霊に助けてもらっているかもしれない。今度は僕が誰かの力にならないといけない。
「だから僕で出来ることなら力になります。いつでも相談してください」
桀さんは眉を下げながら僕の手を握り返し、ゆっくりと頷いてくれた。




