14話 出発前夜
「ぼ……くに?」
淼さまがまっすぐ僕を見つめている。元々冗談を言う方じゃないけど、その顔は真剣そのものだった。
淼さまは左手にある氷の瓶を目の高さまで引き上げた。それを少し傾けながら僕に見せる。
「これは雫だ」
よく見ると瓶の中に少し動いている水滴があるようだ。淼さまの言う通り、雫があることを確認して、そうですねと相づちをうつ。
でも淼さまは黙って首を振った。
「これは、雫の体、だよ」
「僕の……体?」
思わず手を伸ばした。でも瓶に触れる直前、パチンッと何かに軽く弾かれた。指先で静電気が起きたみたいだ。
「あぁ、結界を張ってあるから本人でも触れないだろう。悪いけど見せるだけだ」
淼さまはそう言って、僕の目の前で瓶を振ってくれた。
これが残った僕の体。こんなに少ないなんて……。
本当に一滴なんだ。泉の水……これしか残らなかったんだ。
「最後に残った水はもう少しあったが、泥や草が多くて、本来の泉の水とは程遠かった。泉の水だけを取り出したら、本当に一滴しか残らなかった」
放っておけば蒸発してしまうような水滴だ。氷の瓶で守られていなければ、僕は生きていないのだろう。
「この僅かな水で、火属性の攻撃を受ければ……雫は消えてしまうかもしれない」
淼さまが瓶をゆっくり下ろした。
淼さまの言うことは良く分かった。
鍋の底についた僅かな水滴だって、温める火ですぐに消える。濡れた雑巾だって火の側ではすぐ乾く。
僕の水はそれより少ない。こんなに少ないんだから、少しの火で蒸発してしまうだろう。
泉が消えた日のことを思い出してみる。体の怠さ、遠退く意識、耐えられないほどの眠気。
あの時、完全には消滅しなかったけど、きっと消えるってあんな感じなんだろうな。
「つまり、水精に恨みを持つ火精が、倒しやすい僕を狙ってくるということですか?」
「物分かりがいいね。そしてその確率は高い」
淼さまが再び左手を返して瓶をどこかにしまった。間髪いれずに今度は右手を袖の中に入れる。
今度は別の物を取り出した。紙切包丁みたいな形だけど、持ち手がなくて棒状だ。
「だから外へ行くときは必ずこれを付けていくように」
棒を差し出されたので受けとる。スベスベした手触りの良い木で出来ている。
どちらが前だか分からない。でも指を這わせると、片側がやや鋭くなっていた。多分こっちが先端だろう。
「それは七竈で出来た笄だよ」
「コウガイ?」
始めて聞く単語だ。脳内の辞書を検索してみる。
郊外。口外。校外。あ、公害? え、水質汚濁!
「……雫、多分思っていることは間違っているよ」
吹き出しそうになった。僕の頭の中なんて、淼さまにはお見通しだ。お茶を飲んでいるときだったら間違いなく大惨事だったろう。
「それは笄という。元々は髪を整えるものだけど……まぁ、今は装飾具だと思っていいよ」
僕に装飾品は必要ないと思うんだけど……。
まずどこを飾れば分からない。髪は短いし色は地味だ。木の棒を挿しても似たような色で映えないだろう。
「装飾といっても武器の装飾だけど。雫にとって、これはお守りだよ」
「お守りですか……」
武器の装飾と聞いて、ますます分からない。ひっくり返したり、立ててみたりして笄を観察する。
何度見ても飾り方どころか、使い方も分からない。
「特にどう使うというのはないよ。どこに着けても良い。身に着けておけば七回まで火の攻撃を防ぐことが出来る」
なるほど。火の攻撃から身を守ってくれるからまさしくお守り。持っているだけで良いなんて便利だ。
「材料は木理王から提供してもらった七竈。さらに火理王の炎で強度を最大まであげる加工をしてもらい、仕上げに水理王が火耐性を付けて完成した」
淼さまは今、サラッと恐ろしいことを言わなかっただろうか。木理王に、火理王に、水理王だって?
ついこの間まで理王が何人いるかも知らなかった僕が、五人中三人の理王の合作?
「おぉおぉおおぉおおろおろろおそ」
「雫…………いい子だから帰っておいで」
恐れ多いと言いたかったのだけど、あまりの恐れ多さに呂律が回らなくなってしまった。出来ることならお返ししたい。
「これで雫には三人の理王の守りが付いた。簡単に消えることは許されないね」
ぅわーーーーーーーーーーっ!
何てことだ! これだけ守られていて、うっかり消えるわけにはいかない!
淼さまの顔が少しだけニヤついているように見えた。顔が緩んでも爽やかさが残っているのはずるいと思う。
「二週間……たった二週間と思うかもしれないが、日々、無事に過ごすこと。そして無事に私の元へ帰ってくること。絶対に消えてはならない。これが雫への初めての命令だ」
命令という言葉をきくと体が勝手に動いた。戸惑っていると、自分が片膝をついているのに気づいた。
そう言えば今までの仕事は、やっておくように「頼まれて」いた。命令されたのは初めてだ。おそらく水精としての本能が水理王の命令に従おうとしているのだ。
「は……拝命いたします」
口が自然に動く。淼さまの理王としての力を初めて味わった。
◇◆◇◆
「では、また明日参ります」
執務室を後にする。今日の午後は支度と休息を取るように言われた。淡さんが夕飯を一緒にとりたいと言っていたそうなので早めに支度を済ませておきたい。
淡さんは先日一緒に昼食を取ったきり、会っていない。
でもずっと食事を届けてくれてはいる。ただ僕が一日中演習場にいるせいで、顔をあわせることがなかったのかもしれない。
淡さんは明日からの二週間、僕と一緒に行ってくれるらしい。淡さん本人も言っていたし、淼さまにも確認済みだ。
里帰りだけならまだしも、淼さまの話を聞いたばかりだ。淡さんみたいな頼りになる精霊がいると心強い。
前に聞いたことがあるけど、淡さんは高位精霊だそうだ。高位といえるのは最上位の伯位かその下の仲位のどちらかだ。
そもそも理王にお仕えできる精霊なんて、高位しかいないはずだ。僕が異常な存在なのだと改めて感じてしまう。
そうは言っても王館で淡さん以外の精霊が働いているのを見たことがない。きっと持ち場が違うのだろう。僕のような下位が関わることのない高度な仕事があるはずだ。
考えるのを止めて、荷作りをする。支度と持ち物はほとんど淼さまが用意してくれた。
使うかもしれないと言って渡された袋。中には光沢のある丸い板がいっぱい入っている。
使わないことを祈ると言って渡された刀。七竈の笄はこの刀に付けるように言われた。
それから外套。これは借り物だ。汚しても破れても構わないけど、外では必ずこれを着ているように言われた。
明日、着るのを忘れないように外套はしまわずに掛けておく。
あとはタオルとか着替えとか、そんなところだろうか。鍋も持っていった方がいいのかな。あぁ、それからお箸と匙も……。
あれこれ準備している内に時間はあっという間に過ぎていき、いつの間にか夜になってしまった。
「………で、何だこれは」
夜、僕の部屋にやって来た淡さんは開口一番そう言った。うん、僕もそう思う。
大荷物になってしまった。おかしいな。鞄ひとつの予定だったんだけどな。何で四つになっちゃったかな。
「ひとつにしろよ。何でこんなことになってんだよ」
ごもっともだ。淡さんが僕の鞄をひとつ開けた。バラバラバラッと鍋、お玉、椀などが転がり出た。
「……おい、何だこれは」
淡さんがお玉を拾った。すごく似合わない。
「いや、使うかなと思って……あはは」
淡さんが頭に手を当てた。お玉を持ったままだと料理に失敗したみたいに見える。
「何に使うんだよ。食器と調理器具は使わない。置いていけ」
食事は作らなくても良いのだろうか。
「現地にはそれ相応の場所があるから何とかなる。あとこれ!」
淡さんが二つ目の鞄の中身を覗きこむ。
「なんで、洗濯桶と板が入ってんだよ!」
「いや、使うかなと思って……あはは」
さっきも言った気がする台詞だ。
「洗濯するのか? 完全清潔をマスターしたんじゃないのか?」
あ、そうだった。初級理術の完全清潔も練習したんだった。汚れた服も体も一瞬で綺麗になるという便利理術だ。すっかり忘れていた。
淡さんが呆れながらもどんどん荷物を減らしてくれた。結果的に荷物はひとつにまとまった。
早めに夕食を取りながら、明日の打ち合わせをする。なんだか今更ながらドキドキしてきた。今日、眠れるかな。明日、晴れるかな。
「ちゃんと寝ろよ」
あと、荷物は絶対に増やすなよと念を押して淡さんは帰っていった。まだ仕事が残っているらしい。明日からの仕事を引き継がなくてはならないそうだ。
僕はここ最近理術の練習ばかりだったから仕事らしい仕事はしていない。でも淡さんはちゃんと仕事してるだろうから、そうもいかないのだろう。
正直言って淡さんがどこの持ち場で働いているのか詳しくは知らない。
以前に聞いたときは僕と同じような仕事だって言っていた。ご飯は作ってくれるけど、淡さんが掃除とか洗濯とかしている姿を想像できない。
何はともあれ、明日から淡さんと一緒だ。頼もしい仲間がいて心強い。なるべく丁寧に歯を磨きながら、そんなことを考えていた。




