124話 薔薇の罠
腰の剣に手をかけた。ベンさんをその場に残して数歩進むと、一瞬チラッとこちらを伺うような人影を確認した。
「ベンさん! あそこに敵が!」
気を付けてと言おうとしたのに、ベンさんは僕の隣を素通りしてどんどん近づいてしまった。
「もぅ! 邪魔邪魔ぁ、どいてどいて」
ベンさんは攻撃することもなく、鳥でも追い払うみたいな仕草で木精を追い払った。不思議なことに木精たちはそれだけで逃げていってしまった。構えていた自分がバカみたいに思えてくる。
「見た見たぁ? 坊、強いでしょ? 木偶がそんなに怖いんだねぇ」
ベンさんは振り向きながら腰に手を当てて少しのけ反った。ギギギと軋む音がする。木精にとって木偶のいう地位はそんなに恐ろしいものなのか。でもさっき電飾の上にいた木精は僕たちを狙っていたはずだ。
何か、腑に落ちない。
「さ、邪魔者は消えたしぃ。早く行こ」
ベンさんに手を取られ、強めに引っ張られた。僕より小さいのに力は強いし手は固い。そんなに強く引かなくてもちゃんと付いていくのに。
「ベンさん。ちょっと」
「早くしないと潟たちを待たせちゃうでしょぉ?」
それもそうか。芳さんも早く助けないといけないし、急ぐに越したことはない。ベンさんの言葉に納得して少しだけ歩を早めた。
ベンさんに付いて左へ曲がると分かれ道がなくなった。目の前には一本の真っ直ぐな廊下が伸びている。ベンさんが迷いのない足取りで進んでいくから、この先が応接間だろう。
美しかっただろう壁紙は元の模様が分からないほど傷ついていた。でも今までと違い、外からではなく、部屋の中から傷つけられたような破れ方だ。穴も内側から空いているように見える。良く見たいけど今は観察していられない。
「あそこだよ。急ごぉ」
遠目で見ても大きかった扉は近くで見ると更に大きかった。木製の扉は傷や凹みが多く、折れているところもある。それを隠すように青々とした滑らかな蔓が群がっていた。大きな葉も瑞々しく繁っている。
芳さんはこの中か、それとも潟さんたちの方か。どちらかの部屋にいるはずだ。
潟さんたちはきっともう着いている。待っているに違いない。ガサガサと蔓を掻き分けて蕾の付いた蔓を探した。
「雫、そんなことしなくていいよぉ。ここから入れるからぁ」
ベンさんが扉の横にしゃがみこんでいた。少し屈んで覗き込むと、蔓と葉で小さな穴が隠されていた。ベンさんが軽く手を払うと蔓がズルズルと避けていく。明らかになった穴はさほど小さくなく、僕たちでも通れそうだ。滾さんや桀さんでは詰まりそうだけど。
「雫もおいでぇ」
ベンさんは先に入って中から手招きしている。その様子は緊張感の欠片もない。
「で、でもここから入ると潟さんと桀さんが待ちぼうけに」
「大丈夫。入れなきゃ何とかするでしょぉ」
前屈みになっているとベンさんが腕を伸ばしてきた。本当に大丈夫なのだろうか。急に不安になってきた。
でも考えている時間はあまりなかった。痺れを切らしたベンさんが、指先から出した糸を僕の手首に絡ませて強引に引きずり込んだのだ。
「ベ、ベンさん!?」
「あんまりのんびりしてると怒られちゃうよぉ?」
怒られるって誰に?
僕がベンさんの足元まで引っ張られると、蔓がガサガサと移動して入り口を塞いでしまった。まるで僕たちを薄暗い室内に閉じ込めるみたいに。
黒くて冷たくて固い床に座り込んだまま、呆然と入り口を眺める。そんな僕の様子に構わずベンさんが手首から糸を回収してきた。
「これねぇ、木理王と繋がってる大事な糸なんだよぉ。返してねぇ」
手首を回して糸の回収を手伝う。そんなに大事な糸を乱暴に使って良いのだろうか。少し前に電飾からぶら下がっていたような気がする。
「ありがとぉ。これがないと木理王から理力が入ってこないからねぇ」
「理力を受けとるための糸なんですか?」
糸を回収し終えたベンさんはケタケタケタと笑う。鼻の頭にあった芽はいつの間にかなくなっていた。穴を通ったときにでも取れてしまったのだろうか。
「そうだよぉ。受けとるのも奪うのも糸一本」
奪う? 聞き間違い……じゃないよね。今、奪うって言ったよね。
僅かに後ずさると踵が何かにぶつかった。下を見てみると床から短い刺が出ている。ギョッとして回りを見ると床一面……どころか、壁にも天井にも黒光りした太い刺があちこちから出ていた。中には刺というより針のような長さの物もあった。
全体が少しずつ動いているようにも見える。暗くて見辛いけど、これは恐らく薔薇の蔓だ。真っ黒で、あり得ないくらい太いけど刺の形状が薔薇の物だ。蔓は僕の足より太いかもしれない。
芳さんはどうなったんだ! 無事なのか?
「芳さん! ここにいますか!?」
「いないよぉ。応接間どころか城内にもいないよぉ?」
どういうことだと聞き返せなかった。首が絞まって声が出ない。後ろから絞められているらしく、ズルズルと引きずられる。視線をぐっと下げると、首に黒い蔓が巻き付いていた。息が出来ないまま背中を壁に叩きつけられた。
「っぅぐっ!」
蔓を外そうと藻掻く。けれど薔薇の刺が皮膚に食い込んで、引っ掻き傷が増えていくだけだ。太い蔓はびくともしない。それどころか本当に植物なのかと疑いたくなるほど固い。固くて冷たい。
「あらやだ。あまり傷つけないで、楚」
「分かっとるわ」
暗い応接間に高い声と嗄れた声が加わった。少しだけ刺が短くなってあちこちに感じていた痛みはなくなった。ただただ蔓で絞められて苦しい。
少し上を見ると枝分かれした固い蔓に女性が座っていた。身体のラインにぴったり合った長いドレスは裾がヒラヒラしている。下から見上げているのでドレスの中の白い足が少しだけ見えていた。降りるとき刺に引っ掛かりそうだ。それと肩から腕は剥き出しでやっぱり刺で傷つきそうだ。
「遅かったわね。二人とも」
長い裾をひらめかせて女性が下りてくる。重さを感じさせず羽でも落ちるような軽やかさだ。着地したすぐ側から蔓が一本持ち上がった。蕾を付けたそれは一気に膨らんでパッと黒薔薇が咲いたときには老人が立っていた。
「ごめんねぇ、あいつら無駄に襲ってくるからさぁ。邪魔で邪魔でぇ。あ、雫にも紹介するねぇ。このお爺さんは花茨の新当主・薔薇の楚だよ」
息が出来ない。苦しい。一体、何が起きているんだ。
紹介されても首が動かないから確認できない。女性もベンさんも僕を助けてくれる様子はない。
「ちょっと楚ぉ、絞めすぎだよぉ。雫がかわいそうでしょぉ?」
「緩めれば逃げるぞ。莬」
莬さんの字が分かったところで今はどうしようもない。蔓を切るために剣に手を下ろす。
「喉じゃないところを抑えれば済むでしょぉ?」
「あぁ、なるほど」
首の蔓が緩まって、代わりに四肢と腰を抑え込まれた。剣を抜こうとしていた手は、中途半端な位置で固定されてしまった。身動きがとれないけれど息をするのは楽になり、おかげで少しだけ周りを見る余裕が出来た。
莬さんの隣に立つ老人は腰が曲がっていて漣先生より年上に見える。杖こそついていないけど、腕を後ろで組んでバランスを取っているようだ。
「これは危ないから私が預かっておくわね」
剣を取られた。この女性も味方ではなさそうだ。莬さんは、普通ならあり得ない角度に首を曲げてどこか満足気だ。
「そうそう、自己紹介がまだだったわね。私は逸。先導者の逸」
聞き覚えのない名前に聞き覚えのあるような声。床の蔓から見える刺を避けもせずに僕に近寄ってくる。
「迎えに来たわ。雫」




