117話 二人のしずく
小さな手が肖像画に触れる。雨伯は少しだけ顎をあげて高い位置の絵を見つめていた。僕も雨伯に合わせて絵を眺めてみる。
雨伯に似た白い髪は顎の辺りで終わっていてほとんど外に跳ねていた。こちらを見つめている青い目は澄んだ空のようで、更に瞳の奥に鋭さを湛えていて全てを見透かされるような気持ちにさせられた。
「霈さんはどこにいるんですか?」
絵なのに視線が気まずくて、苦し紛れに話を振ってみた。雨伯は肖像画から手を下ろして視線を外す。
「今はここにはいないのである」
思っていた答えと違うことに少し戸惑った。さっきは治れば良いな、と言っていたから、てっきりこのお城にいるのかと思った。
「霈の魂は深い眠りについているのである」
いつか先生に言われたことがあった。
ーー身体の死は我ら精霊の死とはならない。身体の死はただの眠りじゃ。
ーー魄は復活することもある。じゃが、そうだとしても一旦眠りにつかねばならん。生きているのか死んでいるのか分からないような……目が覚めるかも分からない深い深ーい眠りにの。
この場合の眠りというのは、毎日の睡眠のことではなさそうだ。多分だけど本体を失って……でもまだ魂は生きている。完全に亡くなったわけではないけど、いつ目覚めるかは分からない。復活の時まで眠りについているということだろう。
「霈の姉上が消えてしまったのは二百年くらい前よ。でもねー、私たちには分かるの。魂は生きてるからそのうち復活するわー」
霓さんがのんびりした声ではっきり宣言した。まるで自分に言い聞かせているようだった。
「霈は王太子時代の御上と親しくしていたのである」
雨伯はしまっておいた腕輪を取り出して翳した。まるで穴から霈さんを覗き込んでいるようだ。
「これは対の腕輪なのである。御上が王太子になった際に霈が御上に片方を差し上げたのじゃ」
言われてから改めて見ると絵の中の霈さんも同じ腕輪をしていた。ペアの腕輪をするような仲だったということは、つまり……。
確認しようとすると雨伯は僕の前を通りすぎていってしまった。反対側の壁へ移る。霈さんの肖像画に向かってやや下に黒い縁取り額が見える。
「最後にもうひとり見せるのである。末子の霤である。この子は亡くなってしまった」
しずく?
「雨垂れの霤だ。この子は……この子だけは助からなかったのである」
雨伯が肖像画に両手を付いて眺めている。小さな背中に隠されてしまっていて絵が見えない。
「まだ生まれて一年ほどだった。流没闘争の混乱の中で生まれ、あっという間に弾けていった」
淼さまが僕に雫の名を与えて、雨伯の保護下に置いてくれたのはこの子がいたから……いや、いなくなってしまったからだろうか。亡くなってしまった子の代わりに雨伯に守ってもらっていたのかもしれない。
僕と同じ名前の子はどんな顔をしているのだろう。雨伯の後ろから覗こうとすると、後ろからふわりと布が絡んできた。少し遅れて首にも腕が回ってくる。
「同じ名前だけどー、あの子は雨垂れの霤、雫ちゃんは涙の雫だから性質が違うのよねー」
多分僕の頭に顎が乗っている。そのまま喋っているので霓さんの声が頭に直接響いているようだ。
「そうである。間違っても代わりなどと考えるでないぞ」
半ば見透かされたようなことを言われてドキリとしてしまう。考えてみればそうだ。雨伯の子の代わりに僕がなれるわけない。ちょっと烏滸がましかったかもしれない。
「雫の名でなくても我輩は養子にしたのである。元理王と華龍河の純水な息子を保護しない理由などないのである」
理王の……という言葉で潟さんの影が僅かに揺れた。予想しないタイミングで嫌なことを思い出したかもしれない。
「雫の絵も描かせなくてはならんな」
「父上ー、完成したら私の隣に飾ってねー」
潟さんの様子に構うことなく父娘の間で話が進んでいく。潟さんはさっきから静かで相変わらずにこにこしているけど、口元が少しひきつっていた。やっぱり動揺している。
「さて、今度は城内を見せてやるのだ!」
雨伯が気を取り直してといった調子で僕の手を引っ張る。おかげで最後の絵を見られなかった。
雨伯のお城は当たり前だけど規模は王館よりは小さい。ただ、実家である華龍河と比べると雲泥の差だ。良く分からないところまで金や宝石が散りばめられている。そう、例えば本棚の棚板を止めるボッチとかペン立てとか。
次に見せられた庭は見事だった。凝った動きをする噴水は珍しくて食い入るように見てしまった。頭の上を水が飛んでいったときはビックリしたけど、どれを見てもここが雨雲の中だと言うことが信じられなかった。
雨雲の中にどうして木が生えているのか理解できない。霓さんや潟さんに尋ねてもうまく説明できないと苦笑された。帰ったら先生に聞こう。
「これは七竈の木である。雫もひと枝持っておったな?」
「あ、これですか?」
雨伯が駆け寄った木には小さな赤い実がいっぱい成っていた。見覚えのあるその実は僕の腰にも付いている。
「七竈は火除けには最適であるが、今は必要ないかもしれんな。水晶刀は御上にお返ししたのか?」
「はい。金理王さまからこれをいただいたので……」
腰から武器を外して雨伯に渡した。実は出発前に金理王さまから昇格祝いとして剣を贈られたのだ。恐れ多くて受け取れないと言おうとしたのだけど、先を見越した淼さまに断ったら失礼だと言われた。いつも淼さまから氷刀や水晶刀を借りてばかりだったから、確かに僕専用の武器があれば嬉しい。今回早速、七竈の笄を付け替えて佩いてきたのだ。
「なるほど。玉鋼之剣であるな。ふむ。良い品である」
「雫ちゃんに似合いそうな色ねー」
雨伯は半分ほど鞘を抜いて剣を眺めた。霓さんは浮きながら雨伯の後ろに回って肩越しに見つめている。真新しい玉鋼刀に七竈の実が鮮やかに映えていた。
「水晶刀は御上の私物であり、母上の形見である。あまり長く借りておらん方が良いのである。ちょうど良かったな」
僕に貸す必要がなくなったので水晶刀を鑑定に出すと淼さまは言っていた。免を刺した水晶刀に何か痕跡が残っていないか、土理王さまに調べてもらうそうだ。
雨伯が鞘を戻して僕に剣を返してくれた。受け取ったけど一度外すとなかなか付けられない。持って歩こうとしたら潟さんが僕の手から奪っていった。確かに横に持って歩くと後ろの潟さんたちにぶつかってしまう。
空になった手を雨伯が握ってきた。水精にしては珍しくあたたかい手だ。
「さて、庭も見たことである。今日は泊まっていくのであろう? そろそろ部屋に案内してやろう。おぉ! 調度良い、誰か来たのである」
雨伯の視線の先で精霊がひとり走っている。ものすごい勢いだ。雨伯は僕の案内を命じるつもりなのだろうけど、そんなのんびりした雰囲気ではない。
「御前! ご歓談中、誠に失礼致します! 芳伯の花茨城が襲撃にあった模様です! 使者が参っております! 至急、五月雨の間へお越し下さい!」
雨伯の手に子供とは思えない力が入った。噴水の水が一瞬止まったように見えた。
芳伯の城、花『茨城』→茨城県




