116話 養父との時
外では静かに雨が降り続いている。雨伯の居城はその名に相応しく雨雲の中にあった。竜宮城は雲に守られ、東へ西へと移動し続けているらしい。
建物の中に入ると雨の音は聞こえてこない。地面が遠くて雨が落ちる音がここまで届かないそうだ。足が床に着いているとそんなに上空にいるような気がしない。
窓に付いている無数の水滴を眺めていると、自分が一粒の水滴に過ぎなかったことを思い出す。あの頃の自分は仲位に昇格するなどと考えもしなかった。
そしてこの奇妙な光景も想像しなかっただろう。
「あぁー……もうちょっと上、ぁー。そこで、ぁー」
毛皮に包まれた養父に求められるまま撫で続ける。耳の裏がお気に入りのようだ。複雑に織り込まれた生地の安楽椅子に座り、膝の上にはふかふかの養父。前も思ったけどこれは撫でるのではなくてマッサージだ。
「父上ー。初めての帰宅なんだからもうちょっとゆっくりさせてあげなよー」
初めての帰宅ってどこか矛盾を感じるような表現だ。でもその通りだから仕方ない。雨伯は聞こえているだろうに、娘である霓さんの言うことに耳を貸そうともしない。
「まぁまぁ、霓どの。雨伯も初めて我が養子とゆっくりお話しできるのですから好きにさせてあげては?」
無責任なことを言う潟さんをちょっとだけ睨んでみた。潟さんに僕の太ももが痺れ始めたことを伝えたい。雨伯が僕の太ももにうつ伏せで覆い被さっているので身動きがとれないのだ。
「そうだけどさぁ」
「養親子水入らずでお話ができるのですから良いでしょう?」
潟さんは自分が父親に会いたくないと言っていたのを棚に上げた。呑気に出された茶器に口を付けている。茶器の中身は王館ではあまり見ない赤茶の液体だった。
「私が邪魔みたいな言い方するじゃないー? 元王太子付の侍従武官さま?」
潟さんが王館勤めをしていたのは聞いていたけど王太子付き侍従武官という言葉は初めて聞いた。そういう役職とは知らなかった。潟さんが王館にいたのは先生が理王だったときだ。だから、多分、淼さまの先代理王が王太子のときに付いてたということだろう。
しかも霓さんとも知り合いらしい。有力精霊の雨伯の子となればきっと一目置かれるのだろう。
「ははっ、ひとりで戦う王太子にとって武官などお飾りみたいな役職ですよ。貴女の方が御上の側に仕えていました」
どうやら霓さんも王館に勤めていたことがあるらしい。高位精霊にとっては当たり前なのだろうか。
「あぁ! 役職と言えば雫ちゃんは侍従長になったんだよねー」
霓さんは声が大きい。話を振られたことよりも声の大きさに驚いた。撫でる手を一瞬止めると雨伯が少し身じろいだ。ハッとして再び手を動かす。
「はい。昇格と同時に役職をいただきました。他に成り手がいないので、侍従長なんて不相応な地位に付いてしまいましたけど」
霓さんはまたぽかーんとした顔をしてしまった。瞬きを二、三回した後、ゆっくりと口を開く。
「何この子ー。無自覚ぅ?」
「それは違うぞ」
霓さんの声と雨伯の声が重なった。雨伯は身体を反転させて僕の膝の上で仰向けになった。膝枕してるみたいた。
「雫よ。当代御上は手が足りないからと言って繰り上げで役職を与えることはない。もっと自信を持つが良いぞ」
仰向けのまま小さな手をいっぱい伸ばして僕のこめかみ辺りを撫でてくれる。身体から疲れがスッと抜けていく。雨酔いを治してくれたときみたいだ。腕がピンと伸ばしたまま前髪をくしゃくしゃとかき混ぜられた。
「あ、そうだ。僕もうひとつ用があって……」
腕輪を渡すのを危うく忘れるところだった。雨伯の短い腕を見ていて思い出した。ありがとう、雨伯の腕。
目配せすると潟さんは茶器を置いて手を軽く捻った。潟さんの少し上の方……何もない空間から、小さいけど重厚な箱が現れる。重力に従って落ちてくるのを潟さんが迷わず受け止めた。
「こちらをびょ……御上から預かって来ました」
潟さんから箱を受け取ると、雨伯はそれを目で追いながらガバッと起き上がった。
「何だ? お菓子か? お菓子か?」
そんなにキラキラした目で見ないでほしい。期待を裏切って申し訳なくなってしまう。敢えて中身を告げずに雨伯に差し出した。
箱を両手で受け取った雨伯は、僕のお腹に背中を預けた。じっと蓋を見て、刻まれた水理王の紋章を確認するとようやく蓋を開けてくれた。
「む? お菓子ではないな。これは……っ!」
雨伯が片手で腕輪を掴むと驚いた声を上げた。もう片方の手に持っていた箱の蓋を落としても絨毯のおかげで音が響くことはなかった。
「これは、そんな……直るとは、いやしかし、金理王ならば」
「姉上の釧ですねー」
霓さんが途切れ途切れになる雨伯の言葉を補った。
「ここまで修理するとは流石である」
粉々の腕輪がどんな状態だったのか知らないけど見る限りでは腕輪はヒビひとつ入っていない。砕けていた姿が想像できないくらい立派な腕輪だ。
雨伯が僕のお腹に寄りかかったまま見上げてきた。きっと僕のことは逆さまに見えているだろう。
「これは我輩の娘の物だ。霈と言ってな。王館に勤めていたこともあるのだ」
焱さんが叔母上の形見だと言っていたから、持ち主は雨伯の子だろうとは思っていた。その時焱さんは、腕輪が直って淼さまも喜ぶだろうとも言っていた。何故、雨伯の娘さんの物を淼さまが大事にしているのだろう。
「そうか。直ったか。霈も治れば良いな……」
焱さんが形見だと言うからてっきり亡くなっていると思っていたけど、雨伯の今の言い方だと、そうではないらしい。もしくは僕が焱さんの話を聞き間違えたか。
「そうだ! 雫に家族を見せてやるのだ!」
雨伯の声で沈んだ空気が弾みだした。身体を起こすと同時にピョンっと僕の膝から飛び降りて、少し着崩れた毛皮を体に巻き直した。
「こっちに来るのであるー」
「わわっ!」
雨伯に手を引っ張られるまま席を立った。ちょっと転けそうになった。潟さんも当然のように僕に付いてきた。さらに霓さんが、自分も行くと言って付いてくる。
四人でぞろぞろと部屋を後にすると、すぐに長い廊下に案内された。両側の壁は肖像画で埋め尽くされていた。
「うぇおっほん! これが我輩、伯位・雨の霽である! その隣が長女、氷晶の雱。その隣が次男、白月の霸。でこっちが……」
雨伯の肖像画は今よりも大人の姿で描いてあった。想像で描いたのだろうか。
それよりもいったい何人いるのか。右へ左へぴょんぴょん跳ねながら雨伯に案内をされる。数がとても多くてまだまだ紹介が終わりそうにない。
「これは会ったことあるな! 長男の霆である」
確かに見覚えがある。焱さんのお父上だ。焱さんが大怪我をしたときに王館に来ていた精霊だ。
「カズもいれば良かったのだが、ちょうど秋萌の原へ杰ちゃんの見舞いに行っているのだ」
「焱さ……熀さんのお母上は体調が悪いんですか?」
焱さんはそんなことはひと言も言っていなかった。それなら焱さんだってお見舞いに行った方が良いと思う。
「季節外れの松毬を作るのに張りきりすぎて体調を崩してしまったのよー。ゆっくり休めば良くなるわー」
答えてくれたのは霓さんだった。振り返ると相変わらずふわふわと浮いている。羽衣を靡かせながら僕たちの後に付いてきている。
その羽衣の先が潟さんに絡んでいる。潟さんは文句も言わずに無言で払っていた。
「熀には言っちゃダメよー」
確かに焱さんにこのことを伝えればきっと気にするだろう。自分の治療のために母親が体調を崩したと知れば僕だって嫌だ。霓さんに分かりましたと返事をした。
「それとこれが霈じゃ」
雨伯は話の切れたところで銀箔で縁取られた肖像画を紹介してくれた。美しい縁取りだけど雨伯の足は弾んでいなかった。




