閑話 美蛇江 渾~ 雫との出会い③
「兄上! 裏から入り込まれました!」
妹の声がする。血相を変えて大広間に走り込んできた。今、やっとひとりねじ伏せて落ち着いたところなのにまたか。踏みつけた精霊から足を下ろす。
「何人だ」
「分かりませんが、三人は確実です」
三人か。一昨日追い払った奴らかもしれない。追い払わずに倒しておけば良かった。
御上が代替わりしてからだ、こんな日々になったのは。同時に就任した希代の王太子に比べ当代理王は凡庸だという。良くも悪くも普通。
それが原因で混乱を極めているらしいが低位の自分には詳しい情報は入ってこない。ただ一日とおかずに襲撃されるだけだ。
「分かった。下の子たちを連れて一旦美蛇江へ避難しろ。後から行く」
妹にそう指示をして姿が見えなくなるのを確認する。小さな振動音がした直後に、爆風がなだれ込んできた。天井の一部が落ちてきて咄嗟に頭を庇う。
「くっ……」
一旦、退くことにした。侵入者が三人なら広間で戦うよりも狭い構造の奥の間を生かした方がいい。奥の方が丈夫な造りになっているはずだが細かい破片や砂がパラパラと落ちてくる。
「渾!」
母の部屋の前に差し掛かると床まで流れる碧の髪が目に入った。
「母上、お戻りでしたか」
「あぁ、渾、こんなに怪我をして……私が留守にしていたばかりに」
母の手が左頬に触れる。心地よい冷たさが感じられて、自分の頬が熱を持っていたことに気づいた。先程の天井崩落の時に破片でも当たったのだろう。
「母上、曲者が迫っています。戦いますか?」
退却しますかと聞くことはできなかった。華龍河は母そのものだ。ここを奪われては母も支流である自分達も生きてはいけない。
「心配はいりません。侵入してきた三人は先程捕縛しました」
「は?」
は、速すぎる。自分が広間からここまで退く間に何があったのか。ひとりは少し手こずったという母だが傷ひとつ負っていない。自分との実力の差を感じる。詠唱を変えたくらいでは低位精霊の実力などこの程度だ。
「それよりも渾。大変な事態です。華龍が襲撃される理由が分かりました」
母はそう言うと足早に自分の部屋へと入っていく。遅れて髪が付いていくのを踏まないように後に続いた。
「一部の精霊がこの存在を知ったようです」
振り向いた母の手には淡い色の翡翠が乗っていた。ここ数年、混乱の最中にあって弟妹はひとりも生まれていない。
「父上の理力を狙って来るのですか?」
母は黙って頷いた。
「元理王の理力の塊です。狙われて当然といえば当然ですが何とも愚かで浅はかです」
今何て言った?
「元理王と仰いましたか?」
父上の理力だと聞かされていただけで父上が理王だなどと聞いていない。母は不思議そうな顔をしている。そんな大事なことをなぜ教えてくれなかったんだ。
「貴方には伝えたつもりでしたが」
なら自分は……自分たちは理王の子じゃないか。なのに何故低位なんだ。全員、叔位はおかしい。父が理王で母が高位精霊なら自分たちだって高位精霊になってもいいはずだ。
「父上が言ったのですよ。理力は弱くて良いから子をたくさん増やすようにと」
だから数だけ多くて、皆低位だって言うのか。自分は同じ位でも弟妹を守っているのに。
「このままにしておけばまた襲われます。残りの理力を最後の子にします」
母はそう言うと自分に背中を向けて翡翠を抱えこんだ。背中越しでも玉が淡く光っているのが分かる。恐らく母が理力を込めているのだろう。部屋の壁が碧の光に照らされている。
「……残念だな」
ポツリと呟いた言葉は母には聞こえていないだろう。
母上の髪が床から離れ宙を流れる。まるで河そのものだ。厳かで神秘的な儀式に立ち会っているような気がしてきた。精霊が生まれる瞬間だ。滅多にあることではない。
「……っ」
爆発的な光が起こり翡翠が砕け散った。母の背中越しだったが玉の欠片が散らばったのが見えた。もう翡翠と呼べるような碧色ではなく、水晶かと見間違いそうな透明さだ。
振り向いた母の腕には翡翠の玉はなく、代わりに水球が抱かれている。その中には一匹の鮎が包まれていた。いかにも天女魚である母の子らしい。
「おかしいですね」
「どうしました?」
これが最後の子になるそうだが見たところ普通の鮎だ。どこかおかしいところがあるのだろうか。
「名がありません。それに理力も……これでは季位です。もう少し残っていたはずですが」
それはそうだろう。おかしくなんかない。
少しずつ自分が理力を抜き取っていたのだから。
誰にも……母上にも分からないように少しずつ。雨垂れが石の形を変えるように、十数年かけてゆっくりじっくり抜き取っていた。
おしかった。母上がもう少しこの子を生むのが遅ければ父上の理力を全て抜き取って、高位精霊になれたかもしれない。
混乱に乗じて玉を壊してしまえば良かった。そうすれば壊れたことで漏れ出てしまったことに出来た。
「しかし純度の高い理力です。この子を『涙』と名付けます。私の河を受け泉を成す精霊です」
母がそう言った瞬間、水球が壊れ乳児が現れた。碧の髪が一族の者であることを示している。まだ目は開かないが恐らくは碧色だろう。
「川ではなく、泉なのですか?」
母が乳児の頬を指で撫でる。慈しんでいる様子が良く分かる。自分も手を伸ばして碧の頭を撫でてみた。大人二人に触られても泣きもせず、ただ眠っているだけの乳児に大物の予感をさせられる。
「父上の遺言でした。末の子だけは湖を継がせること」
「湖……?」
朧気ながら覚えている。湖は父上の物だ。父を継ぐのが長兄である自分ではなく末子だと? 何故だ?
「湖を継げるほど強くはありませんから泉にとどめておきます。しかし……玉の底に濃い理力が溜まっていたのですね。弱いですが父上の理力に似ています」
狙いの玉がないことが知れれば襲撃は収まるだろう。だが心にはモヤモヤとしたものが残っている。
「渾、苦労をかけますね。もう少し皆のことを頼みますよ」
母はそう言うと乳児を抱えて出ていった。涙を皆に見せに行ったはずだ。
ーー何故だ。
父上の分も皆を守り、長兄であることに誇りを持って、やがて皆をまとめるのだとそう思っていたのに……。
何故。
「かわいそうな渾」
心に鈍い痛みを抱えていたせいで反応が遅れた。母が去ったと思ったら逸が部屋に立っていた。いつからいたのだろう。何故ここにいるのか聞くべきだが、どうでも良かった。
「貴方はこんなに苦労してるのに報われないなんて」
後頭部に手がかかって引き寄せられる。目の前に光がなくなって柔らかいもので包まれた。温かいのか冷たいのか良く分からない。
「逸、間違えたかもしれない」
くぐもった声しか出せなかった。理王だった父の理力を抜き取っても、結局高位精霊にはなれなかった。そして父のあとを継ぐのは末子だと言う。後ろめたいことをしても無駄だったのではないか。そう思った。
「貴方のせいじゃないわ」
振動で逸が笑ったのが分かった。
「この世の理と理王のせいよ」
随分大胆なことを言う。
でもそうかもしれない。御上がもっと偉大な理王であれば日々、襲撃されることもなく、こんなに惨めな思いをすることもなかった。
逸の声は相変わらず心地よくて目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだ。逸の手が頬に触れた。
「だからね、貴方が理王になれば良いのよ」
あまりに大胆な物言いに思わず顔を上げる。
逸の灰色の目に自分が映っているのがはっきり見えた。その顔は母にも似ているがここ数年の成長で少し変化している。父上に似てきたに違いない。
理王だったという父。その理力を受け継ぐ長子。自分が理王に相応しい気がしてきた。
「そのためにはまず高位精霊にならないと。大丈夫よ。方法はあるわ」
逸が耳元に口を寄せる。息がかかってくすぐったいが声はもっと近くで聞きたい。
「涙から奪えばいい」
話の内容はどうでもいい。ただもっと近くで、魂の近くで喋って欲しい。
「お父上の理力なら貴方が使っても良いはずよ。もし足りなければ他の精霊から集めることも出来るわ」
言われていることは分かっているが、頭は理解することを拒否している。なのに逸の言葉のひとつひとつが自分の中に刻まれていく。
「ねぇ、私を……先導者 逸を信じて? 昇格したら私と……」
「逸……」
逸は首に腕を回し、肩に頭を寄せてくる。高位精霊になれば逸と……。そうだ。自分に好意を寄せてくれる逸のためにも昇格しなければならない。
床には玉の破片が散らばっている。そこに翡翠の面影はない。ひときわ大きな欠片を踵で踏みつけた。
「もう少し待っていてくれ、逸。必ず高位精霊になる。そして王太子になっていずれは……」
逸が形の良い口元の端を引き上げた。
なってみせる。どんな手を使っても昇格してみせる。生まれたばかりの末弟にその座を盗られてたまるか。
父の跡を継ぐのは自分だ。
美蛇編はここで終わりです。読んでいただき有難うございます。次回から本編に戻ります。引き続きお付き合いくださいませ




