106話 引っ越し
眠れない。
眠いはずなのに目が冴えてしまって寝るどころではない。外はやや明るくなって来たらしい。部屋から出れば白んだ空を見られるかもしれない。無造作に寝返りをうった。
「ぁいたっ!」
寝床抑板に頭をぶつけた。今までぶつけたことなどないのに、余程寝相が悪かったのか。
明日で……いや、日付はとっくに変わっている。今日でこの部屋ともお別れだ。十年間過ごしてきたこの部屋を離れなくてはならない。大きなものはすでにまとめてあるけど、細かい掃除はまだだ。
外で鳥が鳴き始めた。
駄目だ。もう起きよう。
どうせこれ以上、横になっていても眠れないだろう。寝不足特有の眼精疲労はこの際仕方ない。深く瞬きをしながら庭へ出た。
空はさらに明るくなっていた。もうじき日も昇るだろう。占有している水場で顔を洗った。ここに来るのも今日で最後だ。感謝の気持ちを込めて冷たい水場を軽く磨いた。
部屋に戻ると身体が冷えていた。上着を羽織ってから寝床を整える。布団を干してしまいたいけど、流石に明け方に干したら湿ってしまう。もう少し後にしよう。
机の上も大体片付けた。指南書も一旦資料室に返却した。床は最後に掃けば良いから、困ったことにもう掃除するところない。
寂しさがないわけではない。十年間過ごした部屋だ。来られない距離ではないけど、多分もうあまり来ないだろう。
朝日が昇るところでも眺めようと思い、もう一度外に出た。
「眠れなかったん?」
「ぅわぁあ!!」
部屋から出たところで話しかけられた。部屋の前で大きな人型がしゃがみこんでいる。
「漕さん! おはようございます」
いつからいたのだろう。さっきはいなかったはずなのに。それとも僕がボーッとしていて気づかなかった?
「おはようさん。坊っちゃん、隈出来とるで?」
目元を軽く押さえた。眠れていないのがバレバレだ。漕さんがよっこらしょと見た目に似合わない声をあげて姿勢を変えた。
ポンポンと床を軽く叩いて隣に座るよう促され、冷たい木の板に直接腰を下ろした。
「水場で休んでたら坊っちゃんが起きてるみたいやったから声かけようか思てな。今日、本館へ引っ越しやろ?」
漕さんの言葉に頷く。僕は今日、この離れを出て淼さまのいる本館へ移るのだ。もう部屋は決まっていて大きい荷物はすでに移してある。王館という点では変わらないけど、水理王との距離が物理的に近くなって緊張する。
「今から緊張してどないするん、坊っちゃ……いや、侍従長?」
慣れない呼び方に固まってしまった。動かない頭が更に思考を止める。
「坊っちゃーん。帰ってきーや」
目の前で漕さんが手をヒラヒラ振っている。漕さんを見たくても自分の首なのにスムーズに動かない。ギギギッという音でもしそうだ。油を注したい。
「そ、漕さん、僕……」
「何や?」
陽が差し込んできて抱え込んだ足の指先を照らした。微かな暖かさにほっとする。
「僕なんかが侍従になって大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫やろ?」
真剣に聞いたのに瞬きを一回もせずに軽く答えられる。でも漕さんの表情はふざけてる様子はない。ちゃんと真面目に返してくれているみたいだ。
「何でそないに悩んでるん?」
理解できないというように、漕さんは首を竦めた。
「だって僕、ずっと低位で最初は季位で……」
叔位に上がったのですら、割と最近だ。生まれてからずっと季位で生きてたのだから。
「坊っちゃんだって本当は叔位で生まれるはずやったんやろ? 理力を美蛇江が奪ってたから季位になったって聞いたで?」
それはそうだけど。それを差し引いても叔位だ。仲位と叔位には大きな壁がある。
「だとしたら前回の昇格で仲位になっててもおかしないわ」
高位精霊になった僕が想像できない。……とはいえもう水理王の命令は実行されているから、すでに仲位になってるのだけど自覚がない。
溜め息が出てしまった。漕さんに頭をワシワシと撫でられる。撫でるというよりも掴まれている気がする。
「坊っちゃんの場合、高位になったからってやることはあまり変わらへんよ。正式な侍従に出来て御上は喜んどるで」
そもそも高位精霊でなければ王館に勤めることはできない。低位だった僕が何故置いて貰えたのか。
最初は流没闘争解決のためという名目があった。
でも最近は勉強のために、というだけでちゃんとした理由がなかった。外へ行くときには『水理王の特使』という大層な名称で呼ばれることもあったけど、それもち正式な役職ではない。
「坊っちゃんが今まで季位とか叔位とかやったから雑用係みたいな扱いやったけどな。これで晴れて御上の側におられるよって、あんまり気ぃはらんときや」
淼さまの側に、か。ついこの間も僕が低位の癖に王館にいるから、淼さまの悪口を言われてしまったのだ。
「僕が仲位になったら淼さまの役に立てるかな」
僕のせいで淼さまがまた悪く言われるのは嫌だ。漕さんに向けての言葉ではなかったけど、漕さんは大丈夫だと答えてくれた。
「役に立つどころか……こき使われるで、坊っちゃん」
漕さんは庭を見つめているようで遠い目していた。何故か同情したくなる。漕さんが普段どんな仕事をしているか詳しくは知らない。
何度か仕事中の漕さんに会ったことはあるし、僕も里帰りしたときお世話になった。でも漕さんのうんざりしたような表情が仕事のキツさを語っている。
「あれ、そういえば漕さん。お仕事は良いんですか?」
「……坊っちゃんまでうちを仕事の奴隷にする気やね」
漕さんはよよよと泣き崩れて寄りかかってくる。でも重いと感じる前に漕さんはスッと離れていった。
「あかんあかん。侍従長に失礼やったな。坊っちゃん、御上から伝言でな。『部屋の引っ越しが終わったら、金の王館に行って徽章を受け取っておいで』やて」
漕さんは淼さまの声と言い方を真似てみせてくれた。非常に似ている。似ているのだけど、見た目と合わないので非常に気持ち悪い。
「徽章って……」
「徽章知らん? ……いやそんなわけあらへんな。お母上は持ってたやろ?」
徽章は高位精霊が持つべき身分証だ。母上はいつも身につけていた。母上の徽章は個別の紋に階級や川を示す印が入る丸い銀盤だった。その徽章と同じ模様が服や手紙に使われるのだ。僕が先日月代へ行くときに来ていた服にも背中に母上の紋章が入っている。
「高位精霊になったんやから華龍河の保護から抜けるやろ。徽章が必要や」
つまり独立だ。先日母上には挨拶を済ませてきた。母上は喜んでくれたけど、滝のような涙を流し、川が溢れるかと思った。王館に戻ろうとしたら、物理的に全力で引き留められて、それはもう大変だった。
でも、独立したからといって母上が家族であることに変わりはない。時々帰って母上を安心させてあげなくては。
「それからな。それが終わったら木の王館に前の衣装を持って行けって言うてたで。早速、精霊使いが荒いわ」
漕さんがやれやれというように膝に手を置いて立ち上がった。朝日はすっかり昇っていて漕さんの後ろには長い影が出来ていた。
前の衣装……今まさに紋章をイメージしていた服だ。木の王館に持っていってどうするのだろう。
「坊っちゃんが起きたら伝えろって言われてた仕事や。それまでのんびりしよう思てたのに、坊っちゃんが早起きするから休めなかったわ」
「す、すみません」
漕さんは思いっきり伸びをしながら僕に文句を言う。けどその顔は全然怒っていない。僕の反応を楽しんでいるだけだ。
「御上は午前中来客があるみたいやで。早いとこ終わらせて午後にでも伺っとき」
来客か。謁見ではないとすると、正式な訪問ではないのだな。誰だろう。雨伯かな。でも空は晴れている。
庭の草木は朝露に包まれ、太陽を反射して少し乱暴に光っている。雨伯が来る気配はない。大体、僕の知っている精霊はそんなにいない。予想しようなどとそもそも無謀だった。
伸びを満足に終えた漕さんが僕に手を差し出してきた。廊下に直に座っていたので冷えてしまった。掴んだ漕さんの手があまり冷たく感じない。
「坊っちゃん。なんか……でかなってへん?」
前は見上げたはずの漕さんの顔が近くにあった。




