09話 雫と淡
「で、実際のところ、どこまで出来るようになったんだ?」
「えーと、指南書の二冊目が終わるところです」
「んなこと言われても分かんねーよ」
自室で少し早めの夕飯をとる。向かいにいるのは淼さまではなく、赤い髪の精霊――淡さんだ。
「そんなこと言われても、淡さんが聞いてきたのに」
「あぁー悪い悪い。俺の聞き方が悪かったな」
天井を仰いでいた淡さんが、ひらひらと手を振る。
「じゃあ言い方変える。何が出来るようになったんだ?」
口調は乱暴だけど、根は優しい。王館に上がった頃から、何かと面倒を見てくれている。正しい掃除道具の使い方を教えてくれたのも、淡さんだった。
僕より長く仕えているのに、王館には住んでいないという。先生みたいに通ってきているのだろうか――そんなことを、ふと思う。
「えーっと……『水球』と『氷結』と『水球乱発』と『氷壁防御』と『冰氷投擲』と『氷柱演舞』と……」
指を折りながら数えていく。まだ他にもあるはずだ。淡さんの方が出来ることはずっと多いだろうけど、それでも、全部言いたい。
「待て待て待て待て待て! ストップ!! 周り見ろ!」
淡さんが椅子を蹴るように立ち上がって叫んだ。
言われるまま視線を巡らせて――固まる。
「何これー!?」
「ナニコレーじゃないわ!」
天井には氷柱、窓際には水壁、宙には水球が三十ほど。床からは逆氷柱が交差して伸びている。
淡さんをうっかり串刺しにしなくて、本当に良かった……。
「……ちょっと油断するとこれかよ」
舌打ち混じりに呟きながら、淡さんは逆氷柱に触れる。
「冷てぇっ!」
文句を言いつつも、氷はあっさりと融かされていく。僕は砕いて片付けることしか出来ないから、その手際は見ていて助かるし――少しだけ悔しい。
「雫、理術覚えるのはいいけどよ……実戦訓練なんてやって大丈夫か?」
その言葉に、思わず視線が落ちた。
僕も同じことを思っていた。楽しいし、出来ることが増えるのは嬉しい。でも――実戦となると話は別だ。正直、怖い。
「出来ないことは出来ないって、ちゃんと言えよ。怪我してからじゃ遅い。師匠に言えないなら、水理皇上から言ってもらえばいいだろ?」
「……うん」
頷きながら、胸の奥に少しだけ重いものが残る。
片付けは、ほとんど淡さんがやってくれた。僕がやるとどうしても時間がかかるから、その分をさりげなく引き受けてくれているのだと、最近になってようやく気づいた。
この三ヶ月、食事を用意してくれていたのも淡さんだと知ったのは、つい先日のことだ。
料理が出来たのかと聞いたら、軽く拳骨をもらった。焼く、炒める、炙るが得意らしい。汁物ばかり作っていた僕とは、少し違う。
美味しかったと伝えたとき、少しだけ照れたように、拳骨の跡を撫でられたのを思い出す。
「それより、しばらく一人で復習なんだろ?」
席に戻った淡さんが、何気ない調子で言った。
僕は浮かんでいる水球を一つに集める。ゆっくりと形を整え、大きな水球へとまとめた。あとでお風呂に使えそうだ。
「うん。明日から振り返ろうかなって」
「一通りやったら、外出てみないか?」
「外?」
思わず聞き返すと、淡さんが少し身を乗り出した。
「王館の中は守られてるし、理力も潤沢だ。だから理術は使いやすい。でも外は違う。他の精霊もいるし、条件も変わる」
なるほど、と小さく息をつく。
誰でも使える世界の理力を、他の精霊も使うのだとしたら――僕が思った通りに扱えるとは限らない。
「ここは理力が濃いからな。だからさっきみたいに、ちょっと意識するだけで氷まみれになる」
「……それは困る」
思わず本音が漏れると、淡さんは小さく笑った。
「外に行くなら付き合うぞ。まぁ、やってみてから考えろ」
「うん……分かった」
焼きプリンを口に運ぶ。やっぱり美味しい。今度、作り方を教えてもらおう――そんなことを考えていると、
「……ん?」
ふと、淡さんの動きが止まった。
視線は、灯りの蝋燭へ向いている。揺れる火をじっと見つめ――
「淡さん、どうし……」
「それ、やるわ」
言葉を遮るように、皿をこちらへ押しやった。
「え、いいの!?」
嬉しいけど、がっついているようで少し恥ずかしい。
淡さんは残りの鮭を口に放り込み、急いでお茶を飲み干した。
「……悪い。仕事だ」
「え、い、今から?」
「急ぎだ」
襟元を整えながら立ち上がる。その動きは、さっきまでとは明らかに違っていた。
「どこかの掃除? 僕、手伝うよ」
「……まぁ、掃除っちゃ掃除だな」
曖昧に笑うその顔に、少しだけ違和感を覚える。
雫の仕事は理術の勉強だ、と言われてから、掃除も料理もしていない。淡さんに任せきりだ。
「二人でやれば早いよ」
「ハハッ、雫の手を借りるまでもねぇよ」
ぽん、と肩に手が置かれる。そのまま淡さんは出口へ向かった。
「器は後で回収する。じゃあな」
「あ、いってらっしゃい」
風を切るように去っていく背中を見送る。
「あ、淡さん! 手袋! 忘れ……」
慌てて後を追う。
「あれ?」
扉を開けると、もう姿はなかった。代わりに、どこか燻したような匂いだけが残っている。
――静かだ。
さっきまでの空気が嘘みたいに、部屋の中が落ち着いている。
一人で食べるデザートは、少しだけ味が違った。
食器を洗いながら、さっきの話を思い返す。
外での練習。
この十年、王館の外に出たことはない。出るなら、淼さまの許可が必要だろう。
「……淼さま、相談に乗ってくれるかな」
最近は執務で忙しそうで、部屋にいないことも多い。
もしかして――僕が邪魔で、今まで外出を減らしていたのだろうか。
そんな考えが浮かんで、すぐに首を振る。
一人でいると、どうしても良くない方向に考えてしまう。
執務室に行ってみて、いなければ戻ろう。いても忙しそうなら、声はかけない。
そう決めて、最後の皿を洗い終える。
「『気化』」
水滴が、すっと消えた。
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