診察 4 ラジェシ君の憂鬱な日常
ロッキンガム侯爵家におけるラジェシ君の立場はかなりあいまいなものだ。いつもハタノファミリーと共にいるあの小柄な男は何者なのだ、という疑問は侯爵家の内外から常にでてくる。
侯爵家は外からの干渉には敏感で、身内に対し少しでも非友好的なものであれば即座に反応して排除する。しかし内部からでる動きには寛容であり「言うだけなら何を言っても良い」という風潮さえある。
ゆえに「なによあの目つきの悪い奴、いつも私の邪魔をして」とか「トモノブ様に用事があるのになんであいつの許可がいるのよ」とか「タローの世話だけやってればいいのよ」とかの悪口は日常的にメイドたちの間で語られる事になる。あの小男は一体どういう立場の者なのか、彼女達も今一つはっきりと理解していないためなのだ。実はラジェシ君御本人もそう思っているとは思いもよらずに。
今日も今日とてメイドたちが貴重な休憩時間をラジェシ君の話題で無駄に費やしていた。
「だいたいね、私だってお子様たちの送り迎えぐらい行きたいわよ」
「あ、それはそうね。デービッド様のところは普通にメイドが同行しているものね」
「でもこの前の事件みたいなのがあったら怖いわよ」
「その時はその時よ、それこそお子様をしっかり抱きしめておけばいいのよ、私達は」
「そうそう、私達は盾になっているだけでいいんだから、あとは他の人たちがなんとかするんだから」
それがラジェシ君なんだが。
「大変よ!アイリーン様が帰ってるわ」
慌てた様子で一人飛び込んできた。
「本当なの、さっき本館に行ったけどそんな気配なかったわよ」
「私も御本人は確認してないわ、でも車があったのよ裏に」
「不意打ちだわ。きっとなにか査察でもあるんだわ」
「お喋りしてる場合じゃないわ、早く行かなきゃ」
「待ってよ、どこに行くつもりなの」
「どこって、とにかくここじゃないどこかよ」
「落ち着きなさいよ、まず身の回りからチェックして、それから何かやり残しがないか見ていきましょう」
メイドたちは休憩していた部屋から飛び出してそれぞれの持場に散っていった。後も確かめずに。そのために「自分たちのスペースを片付けなさい」とアイリーンに叱られる事になるのだ。自業自得である。
その頃アイリーンは侯爵夫妻と面談をしていた。アイリーン本人ではなく連れてきた少女の、である。
侯爵夫妻はソファーに並んで座り、少女からお茶のサービスを受けていた。少女は緊張しているが、動きにぎこちなさはない。そう見えるようにしているのだ。
「なるほど、見事なものだ」侯爵は感想を述べる。
「ありがとうございます。まだまだ未熟者ですが」
「そうだな、そう見えるのが素晴らしい。ええと名前は何だったかな」
「貴方ったら。シャーリーンよ、最初に名乗ったでしょ」
「そうだったな。シャーリーンだ、何処かの古狸とかぶるな」
「まあ失礼な。でも確かにシャーリーと紛らわしいわね」ローリーの実家であるキング家のシャーリーは、子供が二人共家を出ていっているので、いまやキング夫妻を支える最も重要な人物だ。
「ではこの際名前を改めましょう」アイリーンはこともなげに言う。
「そうね、何がいいかしらね」
「可愛いのがいいな」侯爵には具体的な希望はない。夫人はアイリーンと目を交わし首をかしげる。
「ここはやっぱりエマかしらね」「ああ、エマですか」なにやらの思いがあるのかもしれないが、二人以外にはまったくわからない。当然侯爵には否やはない。
「いいだろう。今日からお前はエマと名乗りなさい」
面談はそれで終わった。
「それではエマ、下がりなさい」アイリーンはエマに言った。
「はい、お母様」
少しだけアイリーンは息を呑む。不意打ちではあるがこの後に叱責を受けることを前提としたセリフであることは明らかだ。
「今だけよ」軽くうなずいて目で部屋を出ていくように伝える。シャーリーン改めエマは正確に意図を受け取り会釈をして出ていった。
午後になってエマはメイド長に伴われて屋敷内を練り歩いた。新人のメイドとしての引き回しである。
最後にハタノファミリーが使用している棟に来て、しばらくここの預かりとなることを告げられた。
外見の若さから明らかに子供たちのお相手になることが主目的と皆考えた。それでも「初めてのお勤めだからね、一から仕込んで頂戴ね」とメイド長は宣言して去っていった。残されたエマはメイド達に一斉に取り囲まれた。
「どこから来たの」から始まって素性やからなにから根掘り葉掘りの質問タイムである。適度な素朴さと時折見せる聡明さですぐにエマは皆と打ち解けた。親元から離れ一人ぼっちとなった妹分という位置づけである。
二日後に小さな発表があった。タカノブとフジコの通学時に世話をする係を決めるというのである。メイドたちは色めき立った。選考は実技で決めるとメイド長は宣言した。条件は二つ、ある程度自分の身を守れること。そしてタローと仲良く出来ることである。子供たちとの関係性はすでに前提であるから割愛である。その日のうちに庭に全員を集めて選考会は開かれた。
「一人対一人で三分間戦ってもらいます」武器は好きなものを選びなさい、と言って見せるのはなにやらカラフルな色合いの長短取り混ぜたぬいぐるみのような棒であった。
「柔らかいから怪我はしないと思うけれど、当たれば痛いからね、頭にはこれをかぶりなさい」全員にボクシングのヘッドギアのようなものが配られる。
用意のできた者から棒を振り回し、近くの仲間を叩いたりしてはしゃぎだすのはお約束である。ポコンポコンというかなり間抜けな音ときゃあきゃあという嬌声で庭は一気に賑やかになった。屋敷の中からも何事かと見物する姿も見え始めた。
「いい、勝ち負けじゃないのよ。あなた達の動きが見たいということだからね」メイド長は大声で注意をする羽目になった。あくまでも棒を使った闘いであること。素手での殴り合いや引っ掻きは禁止、投げたり蹴飛ばしたりもだめ。もちろん寝技も。
かなり抑制的なルールを聞かされて不満の声も上がるが当然却下である。
「審判はラジェシ様にやっていただきます」ラジェシ君がうながされて出てくる。メイドたちは一気に不機嫌になった。
試合形式の選考会はこうして始まった。庭の端には椅子とテーブルが置かれ、ハタノファミリーと何故かデービッドとローリーの姿もあった。
棒などを使った素人同士の試合など本来は見苦しいものになるのだが、怪我の心配がないと意外に形になる、映画やテレビで見た格闘シーンを思い浮かべ主人公の動きを真似てみるわけだ。ヘッドギアを着けたメイドがやるのだからかなり異様な光景なのだが。
ラジェシ君はこういう試合をさばくことにもなれているようで、対戦は次々と進んでいく。試合の終わったメイドたちはほとんどがヘッドギアを外し、ゼイゼイと荒い息をして倒れ込んでいる。なれない者に三分間の闘いというのはかなり激しい運動なのだ。
最後に出てきたのはエマ一人である。人数が奇数だったためだ相手になるはずのメイドがいないというわけだ。
ラジェシ君はハタノ氏にどうしましょう、と判断を仰いだ。
「君がお相手してください」さすがに騒然となった。ほとんどブーイングの嵐である。
メイド長が手を叩いて皆を黙らせ進行を促せた。
ラジェシ君は短めの棒を手に構えた。さすがにその姿にはなんとも言えない迫力があった。対するエマは身体相応にやはり短めの棒を持っているが前には構えず横に下げたままである。身長差はあまりないが実力差は誰の目にもあきらかで、試合が始まると悲鳴のような声が渦巻いた。
ラジェシ君は近接格闘の定石としてナイフに模した棒を前に構えてエマに迫った。対するエマは棒を構え、軽く素振りを繰り返し、そして後ずさった。ラジェシ君は開いた間を詰めるべく突進する。エマはついに振り向いて走り出した。後ろに向かって。
広い庭ではあるが、今はメイドたちが倒れていたりテーブルがあったりと障害物も多い。本来の庭木も端には生えている。エマはそれらの間をすり抜けて走った。ラジェシ君は追いかける形であろ。誰が見てもほとんど鬼ごっこだ。
ラジェシ君はもともとグルカ兵である。身体が小さく一見侮られがちだが身体能力は驚異的なものがある。高地育ちなので山間地などの不整地では普通の英国人兵士では相手にもならないのだ。当然ラジェシ君はすぐに追いつき、棒を突き出す。しかしこの体勢ではさすがに当てることは難しい。通常の格闘なら組み付いてなんとかするのだがルールによってそれは出来ない。エマは障害物をうまく使って逃げる。ラジェシ君は体力に問題はない、このまま一時間でも走り続けることも簡単だが徐々に心が疲れてきた。何をやっているんだ、子供を追いかけ回して。つい故郷に残してきた弟や妹の姿を目の前の少女に重ねてしまう。
気がつけば三分間が過ぎていた。
これで実技その一が終了である。走り終わったエマはメイド仲間に取り囲まれて大騒ぎとなっている。ラジェシ君としては疲れた心を癒やしたいところだが、次の役割が待っているのでそうもいかない。
メイド長が指示を出しメイドたちを横一列に整列させた。そこにタローが現れた。横にラジェシ君を伴ってはいるがリードは付けていない。基本的に侯爵家の敷地内ではタローは何かに繋がれるということ自体がないのだ。
「順番にタローの頭を撫でなさい」メイド長の言葉にほっとする者もおれば緊張する者もいる。大型犬を苦手とする人間が一定程度存在するのはしかたがないのだ。
タローはゆっくりと歩み、立ち止まっては頭を出して撫でさせる。内心は喜んでいるのだが表情態度には出さない。尻尾の動きも最小限にとどめているのはさすがだな、とラジェシ君は思った。
立ったまま撫でる者、しゃがんで撫でる者、少し腰が引けている者、そして最後にエマの番となった。
突然タローの態度が変わった。自らエマのお腹に頭を擦り付け明らかにスキンシップを要求したのだ。 ラジェシ君も驚いたが、そこにいた全員の驚きは思わず歓声となった。タローがハタノファミリー以外にこのような親密ぶりを示すことなどかつて一度もなかった事なのだ。
こうして選考会は終わり、当然のように当然のようにエマは二名の合格者のうちの一人となった。審判を務めたラジェシ君は、またまた株をさげたがエマを妬む者は一人としていなかった。
ラジェシ君はエマを普通に歓迎したが、どうも腑に落ちなかった。タローの態度が親密すぎるのである、エマに対して。
まさかお前惚れたんじゃないだろうな、相手は雌だが子供だぞ、実はそういう趣味だったのか、お前。
そういう思いは態度に出るものらしく、タローはラジェシ君の手を少しばかり強めに噛んだ。
結局の所ラジェシ君はこの一件で貧乏くじを引いたのだ。
後日談のつもりだったのに新しい登場人物を出してしまった。
設定だけだったのにどうするんだこれ。