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ドクターハタノの優雅な日常  作者: ふくろう亭
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診察 XX 智信の選択

 タカノブは目の前のテレビ映像に釘付けになっていた。

 ヘリコプターからの空撮と思われるそれが映しているのは橋桁が落ちて崩落した高速道路だ。しかもその手前では大型バスが前輪を空中に突き出し、今にも地上に向けて落下しようとしている。

 「これって中に誰かいるの?」

 思わず口にするが、周りにいる家族からは返答がない。皆呆然として返事どころではないのだ。


 早朝の地震で眼を覚ましたタカノブは地面が揺れ家がきしむという事態にすっかり怖気づいていた。

 生まれ育った英国ではこんなの一度も経験したことがない。

 ほうほうの体で寝床から抜け出し居間に行くと父を含めた家族全員が揃っていた。多忙な仕事のため家にめったに寄り付かない父が、二日前から珍しくずっと家にいた。タカノブは父の顔を見て内心ほっとしていた。他の家族である祖父母や叔母が不安と困惑を顕にしていたのにたいして、父の表情は毅然としていたからだ。

 その父が言った。

 「タカノブ、お父さんはしばらく帰れない。その間皆をよろしく頼むぞ。出来るな」

 え、どういうこと。

 「タカ坊。お父さんはね、医者が必要になるからって、今から出かけるって言うのよ」

 祖母が言葉足らずな父をフォローするように説明を付け加えた。そうなんだ、父はいつも僕には言葉を尽くさないのだ。結論だけを言って、途中経過を省いてしまう。

 「お兄ちゃん、ちゃんと言ってあげないとタカ坊だってわかんないわよ」

 叔母も父を批難気味に責める。

 そうだよ、もっと言ってやってよ。そうタカノブも思うのだが口には出さない。なんのことはない、互いに会話不足の父子なのだった。

 「もう少し状況がわかってからのほうが良くないか」

 祖父が言った。被害の状況等はまだ詳しくわからないのではないのか。

 「親父大丈夫だ。ご近所の被害は大したことはなさそうなんだ。被害の大きいのは西のほうなんだ」

 父はそう言いながら両手をタカノブの肩に置いた。

 「今日は学校に行かず、ご近所の困っている人の手助けをしなさい。うちには水や食料の備えもあるから必要とする人には提供しなさい。一時的な停電や断水があるかもしれないが基本的にここらは震源地から遠いからすぐに復旧するだろう。たぶん怪我人も少ないと思う。私は怪我をした人や急病人を一人でも多く救いたいんだ、わかるな」

 そう言われてはタカノブとしてはうなづかざるを得ない。

 「お母さん、カセットコンロと水があれば食事の心配はありませんから。スミレは気になるだろうけど今日は我慢して家にいろよ、電話が使えると思うから無事を知らせておけばいいんだから。動くのは明日以降にしなさい」

 そう言いながら父は身支度を整えていく。なんだよ、ちっとも医者らしい格好じゃないじゃないか。ハイキングでも行くのかよ。

 そしてリュックサックを背負い足元は丈夫そうな革靴を履いて父は出かけていった。最後にタカノブに向かって「いいか、常に紳士として振る舞うんだぞ」と言い残して。


 そうして父が出ていくのを家族全員で見送った。

 「あ、お兄ちゃん連絡先は…」

 「一応携帯電話の番号は聞いてるのよ」

 「なんだそんな洒落たもん持ってるんだ。私も買っとけば良かったな」

 「さあ、家の中でも片付けましょうか」

 とはいえ、そもそも色々と音はしたが、ガラスや食器の割れたような様子はなかった。倒れた家具も見たところなかったし。

 「ちょっと周りを見てくる」

 そう言ってタカノブは外に飛び出した。

 

 父の言ったように近所の家々に大きな被害は見受けられなかった。ちょっと古い家の瓦屋根が少しずれていたり、家具が倒れて中身が散乱したりというような被害がほとんどのようだ。

 それにしても静かだった。聞こえるのは人々の交わす声ばかり。そうだ街の音が全くしていないのだ。いつもなら早朝から車が走り、商店や会社の出す街の騒音のようなものが全く聞こえない。

 西の方だって言ってたな。少し足を伸ばして川沿いの堤防に上がってみた。

 西の空が暗い。山が霞んでいた。いくつか煙の筋が上がっている。

 頭上をカラスの群れが飛んでいく。西から逃げてきたかのようにタカノブには思えた。


 しばらくして家に帰ると朝食の用意が出来ていた。

 「やっと帰ってきた、どうだったの」

 叔母が笑顔で聞いて来る。仕事先や同僚たちと電話で連絡を取り合ったらしい。

 「あっちじゃ倒れた家もあるらしいのよ、まあいまのところうちの関係で大きな被害は出てないらしいけど」

 それで少し余裕がでてきたようだ。

 「ご近所には大した被害はないようだったけど」

 少し口ごもってしまう。

 「六甲山の麓あたりから煙が上がってた」


 焼きたての卵焼き、鯵のみりん干し、豆腐のお味噌汁に温かいご飯。

 ああ、何時もの日常だ。

 その時音を絞ってつけっぱなしにしていたテレビに空撮映像が映された。橋桁の落ちた高速道路が、そして引っかかったバス。

 よく見ると明らかに火災の煙がいくつも上がっている。

 父はここに行くつもりなのか。

 タカノブの心は大きく動揺した。


 そしてそれきり父と言葉を交わすことはかなわなかった。



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