閑話 父の思い出 2
初めて出かけた街は賑やかだったな。僕が知っている街は奉天ぐらいだったからな。しかしあの北の街とはまったく違った開放感みたいなものがあったな。
ちょっとした小遣いと二日の休暇。ようは花街に行って来いよ、という部隊長からの温情だったんだがどうもね。あんまりそういう気にもなれなかった。なんとなくだが飛行兵たちに悪いなあ、あいつらほど明日をもしれぬ身の上でもないし、というところだったかな。まあ、色気より食い気だったんだな。
なんとなく匂いにつられる様に屋台の集まっているほうに足が向いた。
ああいうのは初めてだったんだ。大きな広場に屋台がいっぱい集まってるのなんて。
食べ物にはあんなに種類があったんだな。すっかり忘れていたんだ。今にして思えば高級料理のかけらもないものばかりだったんだが、あのときの僕にはまるで夢の中にいるようなものだった。
とにかく気分は舞い上がってしまって、早くなにか食べたいんだがあまりの多さにどうして良いのか分からなくなってしまった。二十歳過ぎの良い大人がなんてことだと思うのだが、目が回ったようで立ち尽くしてしまったんだ。
そのときだったな。
「兵隊さん、おいしいおまんじゅうどうぞ」
日本語で声をかけられたんだ。小さな女の子に。
そう、君だな。
蒸し器があって、そこから湯気が盛大にでていたな。
春ごろだったとはいえ、常夏の台湾でよくあんな熱いものを売っていたもんだ。でも衛生面から考えると安心ではあるな。怪しいものを食べて食あたりでもしたら目も当てられないからね。
そこまで考えたわけでもないが、ついふらふらと君のいる屋台に近づいていった。
「兵隊さん、おひとつどうぞ」
愛想よく笑う少女に目の前で勧められては、もう手を出さないわけにはいかなかった。
蒸し饅頭は奉天でもよく食べていたものだが、あれと比べると随分と小ぶりだったな。拍子抜けしたがとりあえずかぶりついたそれは思いのほか美味しかった。中の具にしっかりと味がついていて、少し固めの皮がしっかりとした歯ごたえがあった。
これは幾らでも食べることが出来そうだ。
日本語上手だな、と褒めると少女は少し舌を出して笑った。自分が現地の子供だと思われていること、うまく演じられていることに満足出来たんだな。
「だって日本人だもん」
他の屋台もひやかしながら宿へと戻った。
翌日部隊に帰る前に僕は少女のいた屋台を覗いた。ところが少女はおらず、日本語をあまり解さない現地人の中年の婦人がいるだけだった。
昨日の少女のことをたずねても要領を得ない。しかたなく同僚たちへの土産用に饅頭を買い僕は基地へ帰った。
それから休みが出来ると、もう連休などはとれなかったから日帰りだったが、その屋台へ通うようになった。気に入ったところに通うのは僕の癖なのかもしれないな。今だってこうしてこの喫茶店に通っているわけだし。
君はいたりいなかったりだったな。事情を聞けばあたりまえで、君はその屋台の雇い人でもなければ、家族でもなかった。単に顔見知りのおばさんのお手伝いをしていただけだったんだからな。
まあそれも思えばほんの短い間のことだった。
戦局が大きく動いたのは海軍さんが大きな戦果を挙げたと発表したあとだった。なんでも相当数のアメリカの空母や戦艦を沈めたとのことで、アメリカの戦力が落ちた隙に部隊を動かして一気に逆転しようと陸軍も転戦し始めた。
僕たちの部隊は移動命令はなかった。そのかわり今まで以上に忙しくなり、休みなどまったくなくなってしまった。
時おり出撃した部隊の帰りを待っているときに部下たちから「軍曹殿の饅頭が食べたいですな」などとぼやかれたな。そうそう一階級昇進して軍曹になっていたな。
僕も食べたかったな。
そして八月十五日を迎え、しばらくして僕たちは捕虜となった。
それでもあっさりと翌年には日本へ無事帰れたんだからね、もしあのまま満州にいたり大陸の奥地で戦っていたらどうなっていたことか。そう思うと五体満足で故郷に戻れただけでも良しとしなきゃな。
君を含めた台湾の在留邦人がどうなっていたのかなんてまったく分からなかった。日本へ引き上げてから何年もして少しずつ当時の事情が伝わってきた。
苦労したんだろうな、情けなくも守れなかった兵隊の一人としてはあやまるしかないな。お役にたてなくて申し訳なかった。
こんな風に再会できるなんて。
あの饅頭が食べたいなあ、もう一度。
「食べれるわよ、今度行ってみましょうか、神戸まで」
二人で行った店にはあの時の屋台にいたご婦人そっくりな人がいて驚いた。あの方の娘さんだそうだ。彼女とは日本語と台湾語の混ざった会話をしてちょっと面白かった。
土産に持ち帰った饅頭は母や娘には不評だったようだ。
今でも美味いと思うんだがなあ。




