診察 28 智信の悪運
「まさか貴方が霧の中の人とは思わなかったわ」
豊田さんが高校生時代に文芸部で発表したという小説の話である。
車を駐車場に止めたまま、美玲は智信に話しかけた。
「そう言われましてもなんのことやら」
「だって白い馬に乗った王子様と森の中や花園をデートするような話なのよ。実在のモデルがいたとは誰も思わないでしょ」
「そりゃあそうでしょうね」
「だから少々過激な場面があっても、夢見る少女の戯言と解釈されたのよ、当時は」
それに近いことが現実にあったのなら、それはそれで大問題になるべきことだ。なにしろ深い森の中で口づけを交わしたり、花びらに埋もれた寝台で抱き合ったりする描写まであったのである。事実が伴っていたのなら、現在でも問題となっているだろう。
あくまでも、あの豊田さんならこれぐらいの妄想はするだろう、という生徒や教師たちの思い込みでスルーされたのだ。
「そんなにすごかったんですか」
「うーん、描写としてはソフトだけれど、よく描かれた状況を想像すると、まあそのものズバリよね」
なにがズバリなのか、智信としては発言を控えざるを得ない。だがその沈黙は肯定の意味になってしまうだろう。少なくとも美玲はそう判断した。
「不良ですね、波多野さん」
駐車場を出て王家へ徒歩で向かう。
つい智信は急ぎ足になり美玲を先導するような形になった。
「よくご存知なんですね」
「え、なにがですか」
「だって一本道でもないのに」
一方通行の多い街なのだ、車で来た道と、歩く道は同じではない。
「ああ、それは、このあたりは昔何回か来たことがありまして」貴女の家を見に来たことがある、とは口が裂けても言えるわけもない。
「このあたりもデートコースだったんですか」豊田さんと来たことはたぶんなかったはずだが、つまらない言い訳をしてしまうと泥沼に陥るような気がして明確には答えないことにした。
「まあ彼女も今は独身ですからあまり刺激しないようにしておきます」
そのあたりの事情も聞かないほうが身のためだろうと、頷くだけにする智信だった。
「随分時間がかかったのね、駐車場混んでたの」
「駐車場はともかく、途中の道がね、渋滞してたのよ」
平然としらを切る美玲さんである。そんなことで騙されるのは豊田さんぐらいなのだが、この場合はそれで十分だろう。
智信は気を取り直して、あらためて先日の礼を言った。
「本当にお久しぶりですね、波多野さん」という豊田さんの挨拶から、当然のように話題は二十年前のことになっていく。空調の良く効いた快適な邸内であるが、智信は冷や汗が止まらなかった。
智信にとって幸運だったのは、藤子の存在であった。
「浩二さま大好き」という発言は、自らの息子が智信の娘に好かれていることを表している。浩二もたぶん憎からず思っているのではないか、と豊田幸子はつい妄想してしまった。相思相愛である二人の行く末を母として思うのならば、自分が智信と過去において特別な関係があったなどということは子供たち二人の今後にとって障害となるのではないか。
幸子の妄想は膨らみ、それは自身をある種の悲劇の主人公として規定していった。
(ここで智信さんを追い詰めてはいけない。辛い目にあうのは私だけでいいのよ)
幸子の追求の手が鈍っているのを美玲はあきれながら見ていた。長い付き合いだから幸子の心の動きなど手にとるようにわかる。
(この人は、幾つになっても、変わらないのね)
環境がそれを許して来たとはいえ、それでよいものなのか。まあいまさら豊田幸子という人物が人擦れしてしまってはね。これが彼女らしさなんだから友としては受け入れるしかないわね。
そう思いながらいれなおしたお茶を波多野家の祖母と孫に勧める美玲であった。




