診察 2 甘い言葉
心臓発作を訴える公爵令嬢は、やはり健康体ではあった。聴診器越しに聞こえる心音は力強くリズミカルであった。録音して学生たちに聞かせてやりたいぐらいだ、これなら心電図の波形も申し分ないだろう。記録紙に印刷される波形を想像して思わず「美しい…」とつぶやいた。令嬢の顔が真っ赤に染まるが彼の注意は心臓の動きに集中している。彼は立ち上がり令嬢の背後に回る。回転椅子がなかったので自分が動いたのだ。彼は患者を動かすことをあまり好まない、裂傷などが有った場合傷口が無駄に動いて出血などに影響が出ることを嫌うからだ。もちろん気を失っている場合など指示をしても無駄である。戦場では無駄は極力減らしておかねばならないというのが彼にとっての戦訓だ。背後から見ると診察のためにまとめてもらってあらわになった首筋に赤みが見えた。触診してみるが熱はないし肌も荒れてはいない。正面からの印象にはなかったので血圧が上がったのかとも考えた。診療時に血圧の上がってしまう患者は多いものだが先入観は禁物だ。留意が必要だなと心の中のメモに残す。背中に聴診器をあて「大きく息を吸ってください」と令嬢に声をかけた。何千回繰り返したのかわからないルーティンワークだが基本なので手は抜けない。最近やる人は減っているが彼は打診も行うようにしている。指先で手のひらで、患者の身体の中を脳裏に再現する。画像診断技術が進歩してきているので自分の診断との差異も検証しやすくなった。自身の能力を伸ばすためにもこういう時間にあまり制約のない診療機会はありがたい。若い健康体を隅々まで確認することで、今後の診療で異常の発見に役立てることが出来ると思う。そして現状を正確に記録に残し定期的に比較することで変化に備えるのが予防医学だと考えるのだ。一通りの診断を終え「出来ましたら胸部レントゲン写真と心電図をとりたいですね。急ぐ必要はありませんからご都合の良いときに一度病院までお越しください」そして「今は大丈夫だけれど将来に備えて定期的に観察するのが最善でしょうね」ぐらいのリップサービスは出来るのである。何であろうとこのご令嬢は自分に好意を持ってくれているようだ。長時間診断していればそれぐらいは気がつくようになった。それ自体はありがたいことだし好意にたいしては素直に感謝するしかない、と思う。
上半身を覆う布を外し衣服を整えてもらう。いつも女性を診断するときはこのハタノ特製胸覆い布を着用してもらっている。自分で作っておいてなんだがてるてる坊主みたいだなと思う。こうすると患者さんの胸を凝視することなく診断できて便利なのだ。若い女性のときは出来るだけ母親などの近しい女性の同席を求めることにも留意している。トラブルの種は極力減らしておかねばならないと思っているのだ。触らぬ神に祟りなしとも。
大体薬の投与を望まれることも多いので、栄養剤を処方しておく事がある。今回はビタミン剤にした、血管などに良いらしい、まあ悪くはないだろう、過剰摂取に注意すれば。
「あのう、犬のことなんですが」おお、ジャーマンシェパードの件だな。
「我が家におりますのは今年十歳になる雄なのですが」ああ、それは残念。タローの嫁には向かないな。
さて帰ろう。ハタノ君は自分の車に乗ろうと思ったのだが、既に車は公爵家の手により自宅まで回送済みであった。再び夫人との会話を楽しみながらのドライブとなる。令嬢も同席したがったが今日のところは安静を申し付けたのでさすがに付いては来れなかった。問題の発見されなかった患者家族との会話はどうしても一般的なつまらないものになりがちだ。だから最近は学生に最初の講義で話す内容をしゃべることにしていた。心臓に対する理解を深め、将来の発症に備えるためには基礎になる知識が必要だと思うからだ。最初のうちは適当な相槌を返すがそのうちに内容に聞き入って貰えると静かになるのは学生たちと一緒だな。
「それでね、車の中で相手の方の手を取って軽く握るんですって」
アフタヌーンティーの話題にローリーは最近仕入れたトモノブの話をした。
「そんなことしてるんですか、トモノブ様」とは最近来た若いメイドだ。今日は夫人もアイリーンもいなので話し相手としてお茶を付き合ってもらっている。
「そうなのよ、当然相手はどんな甘い言葉を聞かせて貰えるのかって期待してるに違いないのよ」
「そりゃあそうですよね、私だったら失神しちゃうかもしれません」
「あいつの前で倒れちゃだめよ、えらい目にあうわよ。それはともかくね。相手の方の手を軽く握って握りこぶしを作らせるの」
「はい?」
「それからね、おもむろに、これがあなたの心臓の大きさです、って言い出すのよ」
「正面から見てこちらが右心房、右心室。こちらが左心房、左心室。これらを太い血管が取り巻いています。心臓大動脈と大静脈ですね。肺で酸素をたっぷりと取り入れた赤い血液をこちらからこう通って…」
「手の握りこぶしをそれはもう上手に使って説明するのよ」
「はあ」これは色っぽい話ではないな、と若いメイドも気がついた。
「それからメスを使って切り開くんですって」
「ええ!」
「もちろんそんな風に解説するのよ、心臓の中身を。誰もそんな話なんか期待しちゃいないのに」
トモノブのケンブリッジ仕込みのクイーンズイングリッシュは表現力豊かに心臓を生きたまま切り開いていく。ほとんどの女性はご自分の握りこぶしにリアルな映像が重なって見えるんだそうだ。
「そう言えばトモノブ様を送って来られても大抵の方々は挨拶だけでお帰りになりますものね、おかしいなとは思ってたんですよ」
「そりゃあね、自分の心臓を目の前で生体解剖されて平気でいられる人はあんまりいないわよ。あら噂をすればだわ、帰ってきたみたい」
ローリーの部屋からは玄関前がのぞき見出来る。二人は立ち上がり興味津々に様子をうかがった。
出迎えたのは執事姿のジェームスと古株のメイド頭だった。降りてきたトモノブが車の中に声を掛けている。お茶でもご一緒に、などと社交辞令を言っているに違いない。色よい返事がもらえなかったようでトモノブが残念そうに車のドアを閉じた。大型リムジンは滑るように門に向かって走り去る。トモノブは見送る人々に声を掛けてさっさと屋敷に入ってくるようだ。
「ほらね、どちら様か知らないけれど、本日の犠牲者一号だわ」
「私お茶のお誘いをしてまいります」若いメイドはすばやく部屋を出ていき、しばらくするとトモノブを伴って帰ってきた。
「なあに、今日は往診でも行ってきたの」
「まあね、なかなか心臓の美しい方だったよ」
「なにそれ、お顔の方はどうだったの」
「お顔って、顔色も良い健康な人だな」
「まあいいわ、どちらのお家かしら。私も存じ上げている方かしら」
「どちらって、あれ、何だったかな。貴族様の名前は似てるのが多くてね、そうだうちの病院の理事様だよ確か」
「それって公爵家のことじゃないの、トモ。大ボスの名前ぐらい覚えておきなさいよ、失礼だわ」ローリーも大概失礼ではある。まあ庶民の出なので勘弁してもらいましょう。