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ドクターハタノの優雅な日常  作者: ふくろう亭
19/35

診察 19 健康診断

 智信は現在大阪の実家で暮らしている。

 なにかあれば三春のもとへ駆けつけられる距離となると、サロンもあるここが一番良いだろうとなったのだ。

 そして肩書としては劇団付きの医者ということになった。無給のボランティアのつもりだったが経営側の判断で給料が出ることになった。

 そうなると形式的であっても働かなければならない。経営側はそんなつもりではなかったのだが、本人が仕事を望んでしまった。互いに相手に無駄に気を使ってしまった結果が「保健室の先生」である。

 さすがに大劇場の救護室にいつも待機している、とかはないが健康診断などを手伝う事になった。

 劇団の健康診断には心電図計測もあったので、その場で診断もしましょうということになった。

 頼む方も引き受ける方も軽い気持ちでのやり取りになったが、健康診断の主体となった医療機関は半分パニックになりかけた。

 「小学校の授業に大学教授が来たようなものですから」

 「いやあの方は本物の大学教授ですから、それもケンブリッジですよ、ケンブリッジ」

 そんなことをさせたら無礼者とか言って怒られるんじゃないだろうか、となったのだが、当の智信はあっけらかんとして「三春さんのついでに診ることになりますがよろしいんでしょうか」と、いたって低姿勢であった。


 劇団は何でも組単位で動く。今回も例に漏れず三春の所属する一組八十人ほどが健康診断を受けることになった。

 普通はこのような場合の医師による問診はいたって簡単なものになるのが通例だが、今回は異例のものになった。順番を無視して問診の列に並ぶものが続出したのである。

 「だから先に血液検査や心電図をとってもらわないと困るんです」

 「だってあの子が先に診てもらったって言ってたんだもん」

 「そうよ、検査より直接診断してもらったほうがいいじゃん」

 基本的に世間知らずが多い団員たちだが、裏を返せばお嬢様的なわがままっ子でもある人たちも多いのだった。

 智信本人はマイペースである。資料としての検診結果があればそれを参考に、なければ問診やその場で計測や触診をして診断を行う。これでけが人でもいれば縫ってしまおうかという対応ぶりだ。おかげで助手についた看護師の忙しいこと。

 「血圧と脈拍はこうね、心音は良い音ですよ、前回の記録より多めだけど気にするほどじゃないな、ハイ背中を向けて、大きく息を吸いますよ、もう一度大きくね」

 「所見としては基本的には問題はありませんね、血圧が少し高くなりつつあるのかな。出来れば定期的に計測したほうが良いですよ。まだ若いし血管も柔軟そうだな。貴女お酒を飲みますか、頬の赤みが気になるな、アルコールは控えめにしたほうが良いですよ」

 こんな調子の診断所見をメモに取るのは楽な仕事ではない。

 ちなみに問診時は例のハタノ式胸覆い布を使っている。布とミシンがあれば簡単に作れるので実家で義母に頼んで作ってもらったのだ。ただ五枚もあればよいだろうと準備したのだが足りるはずもなかった。

 三春は当然自分用のものを持ってきていた。通例の検診よりも随分とスムーズに各検査が進むなあ、と思っていたのだが、最後に渋滞の列ができていた。十人ほどの診察待ちと、なぜかあたりにたむろしているものが何人もいるのである。もちろん診察は衝立とカーテンで仕切られておりその様子は見えないようになっているのだが。

 「あ、ミーサマが来ちゃった」

 「どうぞこちらへ」

 三春はこの組の副組長を努めている。芸能的な技術が高いのはもちろんだが、年齢的にも上ということでもある。だから団員たちが集まっているとなんとなく上座的な位置に自然と誘導されてしまうことも多いのだった。しかしこういう場合はいけないだろう、単純な順番待ちでズルはいけない、そう三春は思い固辞するのだが既にてるてる坊主になっていたのがいけなかったのかも知れない。たむろしていた連中も手伝って抵抗むなしく先頭に立たされてしまった。

 慌てたのは助手の看護師である。準備していた検査資料と違う人物が突然現れたのだから。

 ここでもたむろしていた者が助けに入った。

 「この人の資料はこれですね」などと勝手に段取りをつけてしまう。助手の方も三春を確認すると「ああ、この人が……」と納得してしまった。

 智信の診察は丁寧でそれなりに長い。先頭となって待つ三春の周りには団員たちが集まって来た。

 「ミーサマのこれ生地が違いますね」

 「本当だ、これミーサマのお手製ですか」

 「いつもこれを使うんですか、でも病院とかでは使えないのか」

 なんとなくこのスタイルになっていると、先程からのように抵抗しにくいので、三春は「そうよ」とか「違うわ」とか答えるばかりでいじられる一方である。賑やかなムードが健診会場に広がり注目を浴びる中で三春の診察が始まってしまった。

 智信は会場が賑やかな事には気がついていた。ただ、女の園であることだしこんなものなのだろう、と勝手に納得していた。別に周りがうるさくても診療は出来るし、文字通り弾の飛び交う中でもやってきているから少々のざわめきなど邪魔にはならない。三春を見てもいつもの調子であった。診察を始めると周りの音は意識から遠ざかる。

 しかし今の場合は実際に静かになっていたのだ。

 三春が診察スペースに入ったとたんに話し声は途絶えた。順番待ちの列は崩れ、仕切りの衝立に耳をくつけるようにするものも出てくる。注意すべき助手役の係も中の様子が気になってしまった。

 あたりは静かな興奮が取り巻いている。

 もちろん智信にはそんな事はわからない。

 そして三春には衝立の外の状況が手に取るようにわかってしまっている。本来団員たちの行動を注意する立場の自分であるが今はそれどころではない。早く切り上げてもらおうと思ったがなぜかそれも口には出せないでいた。ただ常になく、全身が紅潮していた。

 「どうしました、体温が高くなっているようですね」そんな変化を見逃す智信ではない、ただしこの場合は一種の誤診であるが。

 診察は長くなり、あたりの興奮はより高まり、三春は初舞台に立ったときのように動揺していった。


 診察が終わった三春は膨れ上がった順番待ちの集団を見たが、怒鳴ることも出来ずにそのまま小走りに会場を出た。手洗いに行って火照った顔を洗いたかったのである。


 この出来事は尾ひれが付きまくって劇団中に広がった。

 サロン・ド・ナツコにも当然のように情報はまわり、同席していたアイリーンにも伝わった。さすがに健康診断に付き合う必要はないので別の用事を済ませ、波多野家を訪れていたのである。

 次の機会は絶対に見逃さないと決意したアイリーンであった。

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